第3話 - 「門の向こう側」②
カノンが剣を握り直す。
そして、
苦しそうに言う。
「……時間がありません」
響は門を見る。
異世界。
知らない世界。
帰れないかもしれない場所。
でもここへ残っても、
もう元の日常へ戻れない。
響は唇を噛み締める。
遠くでまた、
空間が割れる音がした。
路地裏の壁面へ、黒い亀裂が次々と走っていた。
そこから、青白い目がこちらを覗いている。
もう、迷っている時間はなかった。
カノンが門の前へ立つ。
片翼が風に揺れる。
彼女は振り返らないまま言った。
「門を越える時、少し酔います」
「は……?」
「気を失わないでください」
説明が雑すぎる。
響は思わずツッコミかけたが、直後、
壁から這い出してきた異形を見て言葉を失う。
増えている。
しかも速い。
異形たちは、
獣みたいな執念で響だけを見ていた。
「王を還せ」
「循環を乱すな」
低い声が重なる。
響の背筋へ、冷たいものが走る。
カノンが剣を構えた。
「行きます!」
その瞬間。
彼女が響の腕を掴む。
強い力だった。
響は反射的に門を見る。
白い光。向こう側の月。知らない世界。
本当に行くのか。
もう戻れないんじゃないか。
大学は。友達は。家族は。
頭の中を、色んなものが駆け巡る。
でも背後では、異形の爪がコンクリートを砕く音が迫っていた。
響は唇を噛む。
そして。
半ば転び込むみたいに、門へ足を踏み入れた。
視界が真っ白になる。
浮遊感。
身体がバラバラになるみたいな感覚。
耳鳴り。知らない声。
大量の光が、頭の中を通り抜けていく。
気持ち悪い。息ができない。
響は思わず目を閉じた。
次の瞬間。
硬い石畳へ膝をつく。
冷たい夜風が吹き抜けた。
響は咳き込みながら顔を上げる。
そこには青白い巨大な月と、
月光に照らされた白亜の街並みが広がっていた。
空気が違った。
肺へ入り込んでくる風が、妙に澄んでいる。
なのにその奥へ、金属みたいな匂いと、
花が腐る直前みたいな甘い香りが混じっていた。
夜空も違う。
青白い巨大な月が、ありえないほど近くに浮かんでいる。
星々はゆっくり脈打つみたいに瞬き、
空の高い場所では、光の帯が川みたいに流れていた。
響は呆然と周囲を見回す。
街そのものは美しかった。
白い石造りの建物。尖塔。空へ伸びる回廊。淡く光る水路。
けれど、どこか歪だ。
街灯は時折ノイズみたいに明滅し、建物の壁面には黒い侵食痕が走っている。
道端の光樹は、半分だけ枯れ落ちていた。
美しいのに、死にかけている。
そんな世界だった。
「……こちらへ」
カノンが低く言う。
響の手を引き、歩き出す。
石畳を踏む音。知らない風。知らない匂い。
現実感が、どんどん遠くなる。
本当に、戻れなくなったのかもしれない。
そんな考えが、頭の奥へ沈み始めていた。
街へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
ざわり、と。
通りを行き交う人々の視線が、一斉にこちらへ向く。
響は最初、自分が見られているのだと思った。
見慣れない服装、現代日本のスニーカー。
異世界の街には不釣り合いな大学生。
そりゃ目立つだろう。
けれど、違った。
向けられている視線は、響ではなく。
カノンへ刺さっていた。
好奇心じゃない。恐怖でもない。嫌悪だった。
露店の店主が、カノンの姿を見た瞬間に顔をしかめる。
親子連れの女が、小さな子供の肩を強く引き寄せた。
「見るんじゃありません」
聞こえるように。隠す気もない声だった。響は思わず周囲を見る。
皆、カノンの背中を見ていた。
片翼。白い羽根。
カノンは何も言わない。
ただ、真っ直ぐ前を向いて歩いている。
慣れている。
その無反応さが、
逆に痛々しかった。
通りの向こうから、酔った男たちの笑い声が響く。
「おい、見ろよ」
一人がカノンを指差した。
「まだ生きてたのか、“片羽”」
周囲が下品に笑う。別の男が、わざとらしく片腕をひらひらさせる。
羽を真似ているのだと、少し遅れて分かった。
「どうせ飛べもしねえのに、残った羽だけは立派だな」
「気味悪ぃ」
「奇跡も起こせねえ欠け物が、騎士気取りかよ」
響の胸の奥が、じわじわ熱くなる。
なんだ、こいつら。
カノンは何も言わない。
表情も変えない。
ただ歩く。
その横顔が、
あまりにも静かだった。
静かすぎた。
男の一人が、
わざとカノンの肩へぶつかった。
「……っ」
片翼が揺れる。
だが男は謝らない。
むしろニヤつきながら振り返る。
「“半端者”が道の真ん中歩くなよ」
その瞬間。
響の中で、何かがドクンと脈打った。
胸の奥が熱い。
頭の奥で、知らない感情が流れ込んでくる。
怒り。それも、十九歳の大学生が日常で感じるようなものじゃない。
もっと重い。もっと冷たい。
“自分のものへ泥を塗られた”
みたいな怒り。
響は思わず顔をしかめる。
違う。今の感情はおかしい。
なのに止められない。
視界の端で、
知らない景色がちらつく。
石が飛ぶ音。白い羽根。
群衆の罵声。
誰かを背に庇う感覚。
そして。
低く、
怒りを押し殺した男の声。
触れるな。見るな。傷つけるな。
響の喉が熱くなる。
気づけば、
口が動いていた。
「――誰の許しで、あれを見る」
低い声だった。
静かなのに、空気を押し潰すみたいな響きだった。
ざわめきが止まる。
男たちの顔色が変わる。
響は自分でも分かる。
今、自分の目じゃない。
人を見下ろす視線。
命令する側の声。
王の感覚。
それが一瞬、
完全に重なっていた。
周囲の人間たちが、本能的に一歩引く。
カノンだけが、息を呑んで響を見ていた。
その目には、恐怖と、懐かしさが混ざっていた。
次の瞬間。
響はハッと我に返る。
心臓が激しく脈打っている。
今の何だ。
なんで、あんな言葉が自然に出た。
しかも。
どうして自分は、カノンが馬鹿にされた瞬間、あそこまで腹が立ったんだ。




