第3話 - 「門の向こう側」①
モール裏には、焦げたみたいな臭いが残っていた。
地面には、さっきまで異形だった黒い粒子が灰みたいに散っている。
遠くからサイレンの音。
騒ぎを聞きつけた人間たちの声も、少しずつ近づいてきていた。
「こっちだ!」
「誰か倒れてるぞ!」
響は荒い呼吸を繰り返す。
まだ心臓がうるさい。
自分が避けたことも、化け物がいたことも、全部現実感がない。
頬へ触れる。
さっき掠めた場所から、じわりと血が滲んでいた。
夢じゃない。
カノンは周囲を警戒していた。
大剣を構えたまま、夜空を睨んでいる。
その横顔には、焦りがあった。
響はようやく口を開く。
「……あれ、何なんだよ」
カノンはすぐには答えなかった。
代わりに、低く呟く。
「予想より早い……」
「は?」
「本来なら、まだこちら側へ深く侵入できるほど、
門は開いていないはずでした」
響の背筋が冷える。
“まだ”。
“深く”。
つまり。
もっと来るのか。
その時だった。カノンが鋭く振り返る。
夜空。
何もない暗闇のはずなのに、そこだけ空気が歪んでいた。
水面みたいに。
次の瞬間。
――ズルリ。
空間の裂け目から、黒い腕が這い出す。
続いてもう一本。
さらに、別方向の壁面からも黒い影が滲み出してくる。
響の顔から血の気が引いた。
「うそだろ……」
カノンが舌打ちする。
「残滓が濃すぎる……!」
異形たちは、匂いを辿る獣みたいに、
ゆっくり響へ顔を向けた。
青白い光。
殺意。
ぞわりと背筋へ悪寒が走る。
カノンは即座に判断する。
ここはもう駄目だ。
モール裏では人目も多い。
それに、門の痕跡が残りすぎている。
このまま留まれば、追手は次々ここへ集まる。
カノンは響を見る。
迷いがあった。
本来なら。
門を越えて人を運ぶなど禁忌。
まして、異世界人を連れていくなど。
だが、今ここへ置いていけば、確実に死ぬ。
カノンは静かに言った。
「響」
名前で呼ばれて、響が顔を上げる。
さっきまで、“陛下”だった。
それだけで、彼女の迷いが伝わった。
「あなたを、こちらへ置いていくことはできません」
「……は?」
「リュミエルへ向かいます」
「ここでは駄目です。人目が多すぎる。少しでも遮蔽物のある場所へ」
響は数秒固まる。
「いや待て待て待て」
当然だった。
「異世界って何!?」
「帰って来れんの!?」
「俺大学あるんだけど!?」
「まだ何も理解してねえんだけど!?」
響の声が裏返る。
その背後で、異形たちが壁を這いながら近づいてくる。
コンクリートへ、黒い爪痕が刻まれる。
カノンは響から目を逸らさず言う。
「既にあなたは、境界へ引き込まれています」
「境界……?」
「このまま現代へ留まれば、門はあなたを中心に開き続ける」
響は息を呑む。
カノンは続けた。
「王権接続が近くにある今なら、短時間だけ門を開けます」
その言葉が妙に怖い。
まるで響自身が、鍵になっているみたいだった。
「長くは保ちません」
カノンの視線が、背後の歪んだ空間へ向く。
「開けば、追手にも位置を知られます」
つまり、ここで迷っている時間はない。
カノンはゆっくり片手を差し出した。
白い手袋越しの手。
その背後では、空間が再びひび割れ始めている。
白い光。
異世界の風。
彼女は静かに言う。
「……来てください」
その声音には、命令じゃなく。
どこか、懇願みたいな響きが混じっていた。
――
深夜。街は昼間とは別の顔になっていた。
人通りの消えたオフィス街。
信号機だけが規則正しく点滅し、ガラス張りの高層ビル群が夜空を映している。
さっきまでの騒ぎが嘘みたいに静かだった。
だが。
その静寂の中に、“異物”が混じっている。
響は息を切らしながら、人気のない裏路地へ駆け込んだ。
背後では時折、空間が軋むみたいな音が響いている。
追手はまだいる。
見えていなくても、どこかでこちらを探している気配がした。
カノンは周囲を確認すると、ビルとビルの隙間――
暗い搬入口の前で足を止めた。
そこは街灯も届かず、暗闇だけが沈殿しているみたいな場所だった。
彼女は大剣を地面へ突き立てる。
ギィン……。
鈍い金属音。
同時に、片翼の羽根が微かに光った。
響は息を呑む。
空気が変わる。
冷たくなる。
風が止まる。
まるで世界そのものが、呼吸を止めたみたいだった。
カノンは低く何かを唱え始める。
知らない言語。
祈りみたいな響き。
すると目の前の空間がゆっくり歪み始めた。
最初は水面みたいな揺らぎ。
だが次第に、そこへ白い亀裂が走る。
ビキ、ビキビキッ――
空間そのものへ、無理やりヒビを入れているみたいな音。
響は本能的に後ずさる。
裂け目の向こうから、冷たい風が吹き込んできた。
夜の匂い。
でも日本の夜じゃない。
もっと乾いていて、どこか花の香りが混じっている。
次の瞬間。
裂け目が、一気に開いた。
白い光。巨大な門。
円形の輪郭が、暗い路地裏へ浮かび上がる。
そしてその向こう側。
響は言葉を失った。
巨大な青白い月。
空の異様に近い位置へ、静かに浮かんでいる。
白亜の塔。
幾重にも重なる尖塔。
淡く発光する樹木。
夜なのに、街全体が薄く光っていた。
幻想的だった。
なのに。
どこか死にかけている。
街灯は不安定に明滅し、遠くの森には黒い侵食みたいな影が広がっている。
塔の一部は崩れ、空気には微かな灰の匂いが混じっていた。
美しい。でも壊れかけている。
そんな世界だった。
カノンは門の向こうを見つめ、わずかに眉を寄せる。
「……王宮まで繋がらない」
響は振り返る。
カノンは小さく息を吐いた。
「王権とはいえ、魂だけではこの距離が限界ですか……」
その声には、焦りと諦めが混じっていた。
つまり。
本来行きたかった場所には、届いていない。
門の向こうは、王都から離れた区域なのだと、響にもなんとなく分かった。
門の向こうから、白い羽根が一枚流れてくる。
響は無意識に掴む。ひんやりした感触。本物だ。
カノンが振り返る。
月光が山吹色の髪を淡く照らしていた。
片翼の影が、長く地面へ伸びる。
彼女は静かに言う。
「……ここが、リュミエル聖王国です」
門の向こうから吹く風が、響の前髪を揺らす。
冷たい。
なのにどこか、生暖かい。
知らない空気が、肺へ入り込んでくる。
響は立ち尽くしていた。
理解が追いつかない。
いや。理解したくなかった。
だって門の向こうには、本当に異世界があった。
CGでも、映画でもない。
匂いがある。風がある。遠くで鐘が鳴っている。
全部、現実だった。
響は無意識に一歩後ずさる。
「……いや」
喉が乾く。
「いやいやいや」
笑おうとした。
でも声が震える。
「無理だろ……」
門の向こうを指差す。
「なんだよあれ……」
「意味分かんねえって……」
さっきまで大学帰りだった。
友達と飯食って、講義ダルいなって愚痴って、家帰って動画見ながら寝るだけだった。
それだけだった。
なのに今、知らない世界へ行けと言われている。
突然、理由も分からないまま。
響は頭を押さえる。
「帰れなくなったらどうすんだよ……!」
声が少し裏返る。
恐怖だった。
ようやく、実感が追いつき始めていた。
冗談じゃない。
ゲームでも映画でもない。
向こうへ行ったら本当に、
今までの日常へ戻れなくなるかもしれない。
大学も。友達も。家も。
スマホでだらだら動画を見る夜も。
全部が、急に遠く感じた。
響はカノンを見る。
「俺、ただの大学生だぞ……」
掠れた声だった。
「なんでこんなことになってんだよ……」
カノンはすぐには答えなかった。
門の光が、彼女の横顔を白く照らしている。
その表情は苦しそうだった。
罪悪感。
多分、
彼女自身も分かっている。
理不尽だと。
でも。
それでも。
カノンは静かに言った。
「既にあなたは、こちら側へ侵食されています」
響の呼吸が止まる。
「……侵食?」
カノンの視線が、響の左腕へ落ちる。
つられて視線を向けた瞬間。
響の背筋が凍った。
腕だった。皮膚の下。
淡い光が脈打っている。
いつの間にか、
見知らぬ紋様が浮かび上がっていた。
黒とも金ともつかない線。
血管みたいに、腕へ広がっている。
見覚えなんてない。
なのに。
それを見た瞬間、
頭の奥で何かがざわついた。
知っている。この紋様を。
知らないはずなのに。
響は慌てて擦る。消えない。
皮膚の内側から浮かんでいる。
「……なんだよこれ」
指先が震える。
怖い。
自分の身体なのに、自分のものじゃないみたいだった。
心臓の奥で、誰かが呼吸している感覚。
知らない記憶。
知らない感情。
それが少しずつ、
自分の中へ染み込んできている。
響は後ずさる。
「……嫌だ」
ぽつりと漏れる。
「俺、こんなの嫌だ……」
響は心底怖かった。
異世界が怖いんじゃない。
怪物が怖いんじゃない。
自分が、自分じゃなくなっていく感覚が、
どうしようもなく怖かった。
その時だった。
――ズルリ。
背後の空間が裂ける音。
響が振り返る。
暗い路地裏の壁面。
そこから、
黒い指先がゆっくり覗いていた。
追手。しかも、さっきより多い。
壁。地面。空間。
あちこちが歪み始めている。
門が、響を中心に開こうとしていた。




