2 - 「王の魂」②
響の脳裏へ、知らない感覚が流れ込む。
鉄の匂い。雪。軍靴。数万の兵。
その中央で、剣を振るう感覚。
響は息を呑み、反射的に剣を手放した。
大剣がコンクリートへ落ちる。
鈍い音。
響は自分の手を見る。
微かに震えていた。
怖い。
今の動き、自分じゃなかった。
身体の奥に、知らない誰かがいるみたいだった。
その時。
――ザリッ。
どこかで、硬いものを擦る音がした。
カノンの表情が変わる。
彼女は即座に響を背後へ押しやった。
「下がってください!」
直後、モール裏の非常階段、その上から“何か”が降ってきた。
轟音。
コンクリートが砕ける。
響は反射的に息を呑む。
現れたのは人影だった。
だが、人間ではない。
どこか獣を感じさせる四肢。
痩せた身体を煤けた灰色の布で幾重にも巻いている。
喪服と僧衣を、無理やり縫い合わせたみたいな姿。
顔には白い仮面。
目の部分だけが深く窪み、その奥で青白い光が揺れていた。
腕には骨の数珠。
足元からは、煙みたいな黒い粒子が滲んでいる。
三人。
いや。
暗がりの奥にも、まだ気配がある。
そいつらは響を見た瞬間、空気を変えた。
怒り。いやもっと古い何か。
墓を暴かれた人間みたいな、静かな憎悪。
仮面の奥から、軋むような声が漏れる。
「……見つけた」
「循環を外れた魂」
「王」
響の背筋が凍る。
そのうち一体が、ゆっくり腕を持ち上げた。
黒く変色した爪。骨みたいに細い指。
そして。
「還せ」
声が重なる。
「王の魂を循環へ還せ」
怒号ではなかった。祈りに近かった。
だから余計に怖い。響は動けない。
頭が追いつかなかった。
数十分前まで、大学帰りに友達を待っていただけなのに。
どうして今、こんなものに“王”として見られているのか。
混乱する響の前へ、カノンが一歩出る。
転がっていた大剣を拾い、静かに構える。
片翼が、夜風に揺れた。
仮面たちが低く唸る。
「片翼」
「まだ王に従うか」
「愚かな」
カノンの目が鋭く細まる。
「……まだ追うのですね」
その声音には微かな疲労が滲んでいた。
次の瞬間。
仮面の一体が地面を蹴る。
響には見えなかった。
ただ。
ギィィィン!!
凄まじい金属音と火花が弾ける。
カノンの大剣が、黒い鉤爪を真正面から受け止めていた。
風圧だけで、近くの自転車が横倒しになる。
速すぎる。
響は目で追えない。
仮面の異形は、地面を滑るように走り、壁を蹴り、獣みたいな軌道で襲いかかっていた。
カノンはそれを迎え撃つ。
白い羽根が舞う。
重いはずの剣が、暴風みたいな速度で振るわれる。
空気が裂ける音。
火花。
コンクリートが砕ける。
だが数が多い。
一体を受け止めた瞬間、別方向から黒い影が飛び込む。
カノンの表情が変わる。
「――っ!」
その瞬間響も気づく。
来る。
もう一体が、真っ直ぐ自分を見ていた。
仮面。青白い光。黒い爪。
完全に、自分だけを狙っている。
足が竦む。逃げろ。
頭では分かる。
でも身体が動かない。
異形が腕を振り上げる。
その時、カノンが叫んだ。
「陛下!!」
――何かが切り替わる。
世界が急に静かになった。
違う。
自分だけ、時間からズレたみたいだった。
火花。風。羽根。
異形の筋肉の動き。
全部が異様に鮮明に見える。
爪がどこを通るか分かる。
次に、どちらへ重心が流れるか分かる。
身体が勝手に動いた。
半歩だけ、後ろへ引く。
黒い爪が、鼻先数センチを掠めて通り過ぎる。
風圧で頬が切れた。
だが、避けていた。紙一重で。
異形の動きが止まる。仮面の奥の光が揺れた。
まるで、ありえないものを見たみたいに。
響自身が一番混乱していた。
「……え」
今の、自分で避けたのか。
ありえない。
運動神経は普通だ。
格闘技経験もない。
なのに。
“どう避ければいいか”を、身体が知っていた。
異形が再び爪を振るう。
今度は横薙ぎ。
だが響の身体は、それより先に沈み込んでいた。
回避。
背後のコンクリート壁が、爪で抉り飛ばされる。
破片が散る。
響は息を呑む。
頭の奥へ、知らない感覚が流れ込んでくる。
戦場。剣戟。殺気。敵の動きの読み方。
命を落とさないための感覚。
まるで、長年戦ってきた人間の記憶。
異形が低く唸る。
「……王」
その瞬間。
胸の奥が、熱を持つ。
ドクン、と。
心臓の近くで、何かが脈打った。
熱い。
焼けるみたいに熱い。
視界の端へ、知らない景色が滲む。
血に濡れた玉座。剣を振るう男。数万の兵。
そして。
誰にも理解されない、圧倒的な孤独。
響は頭を押さえる。
「っ、ぁ……!」
異形がその隙を狙って跳ぶ。
だが、白銀の閃光が、横から割り込んだ。
カノンの大剣。
異形の身体が、真っ二つに断たれる。
黒い粒子が夜空へ散った。
カノンは響を庇うように前へ立つ。
呼吸が乱れている。
片翼が、小さく震えていた。
それでも彼女は、剣を構えたまま動かない。
響は自分の手を見る。
まだ震えていた。
さっきの回避。
身体の動き。
知らない感覚。
全部が、自分のものじゃなかった。
まるで。
自分の中へ、誰かが入り込んでいるみたいだった。




