2 - 「王の魂」①
館内はまだ混乱していた。
停電したフロアでは、非常灯だけが赤く点滅している。
店員たちが必死に避難誘導を叫び、
泣き出す子供を抱えた親が走り、
スマホを構えた人間たちが興奮気味に騒いでいた。
「やば、今の撮れた!?」
「配信つけろって!」
だが。
吹き抜け中央に立つ“それ”へ近づく者は、もう誰もいなかった。
空気が変わっていた。
白い軍服。巨大な大剣。背中の片翼。
作り物には見えない。
むしろ、見れば見るほど“本物”だった。
羽根が、呼吸に合わせて微かに揺れている。
響は唾を飲み込む。
あんなものが存在していいわけがない。
その時。
女――カノンが鋭く周囲を見回した。
獣みたいな目だった。
戦場で何度も死線を越えてきた人間の目。
その瞬間、響の背中に嫌な汗が流れる。
この人、ここに居ちゃ駄目だ。
理由は分からない。でも。
このまま人目へ晒し続ければ、取り返しのつかないことになる。
そんな感覚だけが、妙にリアルだった。
「……こっち」
気づけば、響は彼女の手首を掴んでいた。
触れた瞬間カノンの肩が小さく強張る。
反射的に振り払おうとして――止まる。
その瞳が、一瞬だけ揺れた。
まるで、“誰か”に触れられたみたいに。
響はそんなことに気づかないまま言う。
「人来るから。隠れた方がいい」
数秒、カノンは響を見つめていた。
やがて小さく頷く。
響は人混みを避けるように、従業員通路へ向かった。
途中どうしても、彼女の背中が視界へ入る。
右側だけの翼。
近くで見ると、羽根の一枚一枚に薄く光沢があった。
呼吸に合わせ、生き物みたいに微かに擦れる。
左側はない。
響は視線を逸らす。
意味が分からない。
頭がおかしくなりそうだった。
――
搬入口近く。
人気のないモール裏へ出ると、夜風が熱を冷ました。
遠くではまだサイレンが鳴っている。
響はようやく立ち止まり頭を押さえた。
「……まずさぁ」
声が掠れる。
「陛下って誰だよ。俺は斎木響。大学帰りだっただけなんだけど」
カノンは静かに響を見る。
その視線が妙に重い。
「陛下は、あなたです」
「いや意味分かんねえって」
響は乾いた笑いを漏らした。
笑っていないと、現実感が壊れそうだった。
「なんで羽生えてんだよ」
「なんで剣持ってんだよ」
「ていうかあれ何? 映画? 自衛隊の実験?」
カノンは少しだけ黙る。それから短く言った。
「門が開きました」
「は?」
「こちらと、あなたたちの世界を繋ぐ門です」
夜風が吹く。
非常灯が、白くちらつく。
「数日前、王が死にました」
その声音だけ、少し掠れていた。
「本来なら、魂は循環へ還るはずでした」
カノンは空を見る。
さっき門があった場所。
今は何もない。
だが、空間だけが微かに歪んで見えた。
「閉じきれなかったんです」
「……何が」
「門が」
短い沈黙。
カノンは続ける。
「力の流れが乱れています」
「力?」
「あなたたちの世界で灯りが増えれば、こちらでは森が痩せる」
響は眉をひそめる。
「こちらで奇跡を使えば、そちらでは何かが還る」
その言い方が妙に怖かった。
死ぬ、とは言わなかった。
でも。そういうことなのだと、なぜか理解できてしまう。
「門は、その循環のためにある」
カノンの視線が、ゆっくり響へ向く。
「……ですが今、王の魂だけが還れなくなった」
その瞬間。
響の頭の奥で、何かが軋んだ。
白い城。燃える戦場。雪。玉座。
そして――山吹色の髪。
『……カノン』
知らない名前が、勝手に口から零れた。
カノンの呼吸が止まった。
響自身も固まる。
「……なんで俺」
口を押さえる。
今の声、自分のものじゃないみたいだった。
カノンは答えない。
ただ、響を見る目が変わっていく。
理解じゃない。確認でもない。
もっと静かな、取り返しのつかないものを見る目。
響は首を振る。
「待ってくれ。偶然だろ。お前がどっかで――」
「私は、まだ名乗っていません」
背筋が冷える。確かに、名前なんて聞いていない。
なのに、知っていた。
響は無意識に後ずさる。
「……なんなんだよ」
カノンは少し迷ったあと、腰のポーチから金属板を取り出した。
古びた銀色。
表面には、見たこともない文字が刻まれている。
だが、響はそれを見た瞬間、意味を理解してしまった。
《第七循環――》
《封鎖失敗》
《王権……接続》
頭の奥へ、直接流れ込んでくる。
響の顔から血の気が引く。
「……なんで読めるんだよ」
カノンは静かに響を見る。
何も言わない。
その沈黙の方が怖かった。
その時。
カノンの背中の大剣が、かすかに金属音を鳴らした。
響の視線が吸い寄せられる。
巨大な剣。
人間が扱える重さじゃない。
なのに、どう握ればいいか身体が知っていた。
気づけば響は、ふらりと手を伸ばしている。
カノンの目が見開かれる。
「触れないでください」
遅かった。指先が柄へ触れる。
その瞬間。剣が、わずかに脈打った気がした。
普通なら持ち上がるはずがない。
だが、異様に軽い。
いや。
剣の方が、一瞬だけ拒絶をやめたみたいだった。
ギィン――――
重い金属音。夜気が震える。
響自身が一番驚いていた。
「……え」
身体が勝手に動く。
足を開く。
腰を落とす。
刃を斜めに構える。
その動きは、洗練されすぎていた。
まるで長年、戦場で剣を振ってきた人間みたいに。
カノンの顔色が変わる。
先王の構えだった。




