1 - 「片翼の騎士はショッピングモールに降り立つ」
講義終わりのキャンパスは、夕方になると妙に気が抜ける。
斎木響は、人の流れに混ざりながら大学の正門を出た。
九月の終わり。昼間はまだ暑いのに、風だけが少し秋っぽい。
スマホが震える。
『まだバイト終わんねー』
『駅前モールで待ってて』
友人からのメッセージ。
響は了解のスタンプだけを返した。
特に急ぐ理由もない。
講義終わりに適当に集まって、
飯を食って、だらだら喋って、終電前に帰る。
大学に入ってから、そんな時間が増えた。
自由になったはずなのに、何者にもなれていない感覚だけが、前より少し濃くなった気がする。
周囲に合わせて笑って、空気を読んで、深く考えないふりをするのも、昔より上手くなった。
でも、それでいいとも思っていた。
大型ショッピングモールへ入ると、冷房の匂いが肌を撫でた。
吹き抜けには夕焼け色が差し込んでいる。
下の階では子供が泣いていて、
カップルがドーナツを半分こしていて、
店員がマイクでセール品を叫んでいる。
イヤホン越しの音楽と、雑多な生活音が混ざる。
響はエスカレーターへ寄りかかりながら、ぼんやり人の流れを見下ろした。
こういう、何も起きない時間は嫌いじゃなかった。
課題は面倒だし、将来もよく分からない。
でも。
友達がいて、帰る場所があって、適当に笑っていられる。
それくらいで、人生は十分なのかもしれないと思っていた。
ふと、吹き抜け中央の大型モニターへ視線が向く。
ニュース番組。
『近頃、各地で発生している大規模停電、樹木の大量枯死との関連は――』
最近やたら多いな。その程度にしか思わない。
――ビキッ。
頭上で、巨大なガラスへ亀裂が走ったみたいな音が響く。
思わず見上げる。
違う。
割れているのはガラスじゃない。
空間そのものだった。
吹き抜け中央。
夕焼けが差し込んでいた空間に、黒い亀裂が走っている。
ひび割れは蜘蛛の巣みたいに広がり、その奥から白い光が滲み出していた。
眩しいのに、なぜか冷たい光。
見ているだけで、頭の奥を掴まれるような感覚がする。
その瞬間。
光の向こうから、誰かの呼吸みたいなものが聞こえた気がした。
同時に、冷たい何かが胸の奥へ滑り込む。
耳鳴り。
心臓が、一度だけ大きく脈打った。
周囲がざわつく。
「え、何?」
「プロジェクションマッピング?」
「イベント?」
笑いながらスマホを向ける者。配信を始める者。
誰もまだ、本気で何かあるとは思っていない。
だが次の瞬間。
亀裂が、“開いた”。
空中へ現れたのは、巨大な門だった。
白銀とも石ともつかない材質。
円環状の門体には、見たこともない文字列が脈打つように浮かんでいる。
空気が歪む。門の向こうには、知らない夜空が見えた。
青白い月。白い塔。光る樹木。
まるで、別の世界そのものが口を開いているみたいだった。
そして、館内の照明が落ちる。
停電。
一瞬で空気が変わった。
悲鳴が上がる。
非常灯だけが赤く点滅し、さっきまで笑っていた人間たちが後ずさる。
子供が泣き出す。
誰かが「やばいって」と呟く。
門の奥で、何かが動いた。
ギチ、ギチ、と。
硬い殻を引きずるみたいな音。
次の瞬間、“それ”が落ちてきた。
空気を叩き割るみたいな轟音。
吹き抜け中央へ着地した影が、床を陥没させる。
白い羽根が舞った。
女だった。二十五前後。
肩くらいの長さの山吹色の髪。
白を基調にした軍服。
黒いベルトで固定された巨大な大剣。
背中には翼。
だが片方しかない。
純白の片翼だけが、赤い非常灯の中でぼんやり浮かび上がっている。
頭上には、歪な輪光。
天使の輪に似ているが、時折ノイズみたいに明滅していた。
彼女はゆっくり顔を上げる。
その瞳は、長い戦場を生き残ってきた兵士の目だった。
そして。
彼女が響を見た瞬間。表情が止まる。
だが次の瞬間、門の奥が蠢いた。
黒い腕が、門の縁へ突き刺さる。
続いて現れたのは、獣とも人ともつかない異形。
犬の頭蓋骨みたいな顔。裂けすぎた口。空洞の眼窩で脈打つ赤い光。
全身は黒い泥みたいな質感で、ところどころから煙のような粒子が漏れている。
異形は着地すると、四足で低く這いながら周囲を見回した。
そして響を見た。
空洞の眼窩が、真っ直ぐこちらを向く。
異形の口が、ゆっくり裂ける。
『――ハイッタ』
『――オウ』
『――ミツケタ』
響の背筋が凍る。
次の瞬間、異形が跳んだ。
爆発みたいな踏み込み。
一直線に響へ突っ込んでくる。
だが、白い影が割り込んだ。
耳をつんざく金属音。火花。
片翼の騎士――カノンの大剣が、異形の爪を真正面から受け止めていた。
細い身体が、床を滑りながらも一歩も退かない。
異形が吠える。
カノンは低く息を吐いた。
その目から、迷いが消える。
異形の腕が横薙ぎに振るわれる。
柱ごと切断しそうな一撃。
カノンは身を沈め、踊るみたいに潜り込む。
一瞬で間合いへ入り込み、大剣を振り上げる。黒い腕が宙を舞った。
切断面から、血ではなく黒い粒子が噴き出す。
異形が絶叫する。脳へ直接響くような悲鳴。館内のガラスが震える。
だがカノンは止まらない。
踏み込み。回転。
巨大な刃が、暴風みたいな速度で走る。
次の瞬間、異形の首が宙を飛んでいた。
黒い粒子を撒き散らしながら、その頭部がこちらへ転がってくる。
ゴトン。
響の目の前で止まる。
空洞の眼窩。裂けた口。赤い光。
異形の口が、ゆっくり動く。
『――かえセ』
そう言った後、異形の体は黒い粒子になってさらさらと消えていった。
その瞬間。
響の頭へ、“知らない記憶”が流れ込んだ。
雪。炎。血の付いた手。灰色の戦場。
玉座の下から向けられる、冷たい視線。
理解されない怒り。
誰も分かっていない、という孤独。
そして――白い羽根。
雪の中を駆ける、片翼の騎士。
山吹色の髪。
大剣。
誰より速く、誰より鋭く、地を裂くみたいに戦う背中。
胸の奥が熱くなる。
懐かしさとも違う。
救われるような感覚。
名前が、頭の奥から浮かび上がる。
『……カノン』
その瞬間、目の前の女と、記憶の中の背中が重なる。
口が勝手に動いた。
「……カノン」
カノンの瞳が揺れる。
戦場で一度も刃を鈍らせなかった人間とは思えないほど、その表情は動揺していた。
響自身も混乱していた。
なんで知っている。
誰だ、それ。
だが次の瞬間。
「左へ流れる癖、
まだ治ってないのか」
その言葉に、カノンの瞳が見開かれる。
片翼になってからの僅かな重心の偏り。
それを見抜ける者など、もう存在しないはずだった。
響自身、なぜそんなことを知っているのか理解できなかった。
館内から音が消えたみたいな静寂の中、カノンはゆっくり大剣を下ろす。
そして、響の前へ進み出る。
山吹色の髪が、赤い非常灯の中で揺れていた。
彼女は片膝をつく。
騎士の礼。
震える声で告げる。
「……お迎えに参りました、陛下」
響は言葉を失う。
その感情が、自分のものではない気がして。
響は、初めて自分自身に恐怖を覚えた。




