第12話 - 「Last Vane」③
静寂。
そこにいたのは、王……いや、もう王ではなかった。
ただの男。
三十五歳の、疲れ切った男。
玉座もない。
鎧もない。
王冠もない。
ただ、立っているだけで壊れそうなほど疲れた男が、静かに響を見ていた。
「……お前は優しいな」
響は息を吐く。
「あんたほど、不器用じゃないだけだ」
王は小さく笑った。
苦しそうに。
「国を救いたかった」
「それは分かる」
響は、王から目を逸らさなかった。
「あんたが苦しかったのも、分かる」
王の瞳が、微かに揺れる。
「でも、やったことは許されない」
静かな声だった。
怒鳴るでもない。
責め立てるでもない。
だからこそ、逃げ場がなかった。
王は目を伏せる。
「……私は、王だった」
「だったら、助けを求めればよかった」
「王は弱音を吐けない」
「誰が決めたんだよ、そんなの」
沈黙。
長い沈黙。
響は拳を握る。
「あんたが一人で抱えたせいで、カノンは翼を失った」
王は何も言わない。
「たくさんの人が死んだ」
沈黙。
「それでもまだ、あんたは戻りたいのか」
王の顔が歪む。
初めて。
王ではなく、一人の男みたいに。
「……消えたくなかった」
掠れた声だった。
「終わりたくなかった」
響は小さく息を呑む。
王は笑う。
泣きそうな顔で。
「惨めだな」
「惨めでいいだろ」
響は言った。
「人間なんだから」
王はゆっくり顔を上げる。
その目には、ようやく諦めがあった。
諦め。
そして、ほんの少しだけ安堵。
「……そうか」
意識が戻る。
現実。
崩壊する地下世界。
暴走する奇跡炉。
そして。
魔獣が、崩れ始めていた。
黒い肉体が、粒子みたいに剥がれていく。
赤黒い翼も、もう維持できていない。
王は限界だった。
循環から拒絶され、無理やり現世へ留まり続けた代償。
存在そのものが、崩壊している。
その中を、カノンが飛ぶ。
ほんの数秒。
一瞬だけ戻った、黄金の翼で。山吹色の髪が、光の中を駆け抜ける。
地下世界の崩壊も。
暴風も。
悲鳴も。
全部置き去りにするみたいに。
美しかった。
響は息を呑む。
魔獣は最後まで、彼女を攻撃できなかった。
巨大な爪も。翼も。牙も。
ただ空中で止まっている。
まるで、愛してしまったものだけは、どうしても壊せなかったみたいに。
カノンは涙を流しながら、魔獣の前へ降り立つ。
金銀の翼が、強く光った。
その瞳には、もう迷いはなかった。
「……さようなら、陛下」
魔獣の赤黒い瞳が、ほんの少しだけ和らぐ。
歪な顔。
崩れた肉体。
それでも一瞬だけ。
確かに、昔の王の顔へ戻った。
そして。
「ああ」
短い返答。
それだけだった。
カノンが剣を構える。
同時に響も、大剣を握り直していた。
カノンが目を見開く。
響は魔獣を真っ直ぐ見たまま、静かに言う。
「……終わらせよう」
その声は、もう王でも、怯えていた少年でもなかった。
斎木響自身の声だった。
カノンの瞳が揺れる。
そして、小さく頷いた。
次の瞬間。
二人同時に床を蹴る。
白と黒。
二本の剣閃が、崩壊する地下世界を駆け抜けた。
カノンは上段から。
響は正面から。
交差する軌道。
王は避けない。
最後まで、ただ静かに二人を見ていた。
そして二つの斬撃が、同時に魔獣を貫く。
地下を揺らす衝撃。
赤黒い肉体へ、巨大な亀裂が走った。
光。熱。絶叫。
魔獣の身体が、内側から崩壊していく。
黒い翼が砕ける。
王冠の角が砕ける。
巨体が、粒子へ変わっていく。
その崩壊の中で。
王は最後まで、カノンを見ていた。
どこか安心したみたいな目で。
その時。
カノンの背中から、黄金の翼がゆっくりと離れ始めた。
肉ではない。
血でもない。
魂の一部が、そっと離れていくみたいだった。
カノンは止めなかった。
ただ、静かに見送った。
黄金の翼は、崩れゆく王の魂の周囲を舞う。
一度。二度。
まるで、もう帰れると告げるように。
王の瞳が、初めて穏やかになる。
怒りも。執着も。恐怖も。
少しずつほどけていく。
黄金の翼が、王の魂を包み込む。
それは復讐ではなかった。
処刑でもなかった。
祈りだった。
循環へ還すための、最後の奇跡だった。
王の姿が光にほどける。
黄金の粒子と共に、ゆっくりと上昇していく。
そして。
光の粒子になって、循環へ還っていった。
門の暴走が収束し、地下を揺らしていた崩落音も少しずつ遠のいていく。
崩壊の止まった地下空間で、響は膝をつく。
呼吸が苦しい。
でも。
胸の奥にあった圧迫感は、もう消えていた。
カノンがゆっくり近づいてくる。
背中には、白銀の片翼だけが残っていた。
黄金の翼は、もうない。
再生したわけじゃない。
あれは本当に、一瞬だけの奇跡だった。
響が苦笑する。
「……飛べるんじゃん」
カノンは少し目を丸くする。
それから。
泣きそうな顔で、ほんの少しだけ笑った。
地下の向こうでは、夜明けが始まっていた。




