第12話 - 「Last Vane」②
彼女の身体が、崩落した柱の下敷きになっている。
大剣は少し離れた場所へ転がり、片翼だけが瓦礫の隙間から見えていた。
血。
白い羽根へ、赤が滲んでいく。
響の呼吸が止まる。
頭が真っ白になる。
「……カノン?」
返事はない。
奇跡炉の暴走音だけが、地下空間へ響いていた。
視界の端で、白い羽根へ赤が広がっていく。
それを見た魔獣も止まった。
赤黒い瞳が、瓦礫の下のカノンを見ている。
完全に動揺していた。
まるで、彼女が傷つく未来だけは、想定していなかったみたいに。
地下空間へ、奇妙な静寂が落ちる。
だが次の瞬間。
魔獣の肉体が、大きく脈打った。
暴走した奇跡炉のエネルギーが流れ込み、黒い肉が再び膨張する。
背筋へ悪寒が走った。
巨大な影。魔獣の腕だ。
振り返るより先に、本能が叫ぶ。
死ぬ。
響は反射的に大剣を構える。
次の瞬間、空気が裂ける音が響いた。
魔獣の腕が振り下ろされる。
響は崩れた床を蹴った。
ギリギリで回避。
直後、さっきまでいた場所が爆散する。
吹き飛んだ石片が、目元を掠めた。
だが響は止まらない。
止まれない。
視界の奥。
瓦礫の下敷きになったカノンが見える。
助けなきゃいけない。
でも。
魔獣を止めなければ、近づくことすらできない。
魔獣が再び咆哮する。
地下空間が揺れる。
赤黒い翼が大きく広がり、暴風が吹き荒れた。
響は歯を食いしばる。
怖い。
目の前にいるのは、人間じゃない。
なのに。
胸の奥では、まだ“王”の感情が流れ込んでくる。
苦しい。
終わりたくない。
失いたくない。
その感情が、余計に響を苛立たせた。
「……ふざけんなッ!!」
響は床を蹴る。
大剣を振り上げる。
王の剣技。
でも、今振っているのは、自分の意思だ。
魔獣の腕が振り下ろされる。
響は真正面から突っ込んだ。
衝突。
腹の底へ響く激突音。
両腕が悲鳴を上げる。
だが今度は押し負けない。
響は力を流し、滑るように軌道を逸らす。
そして大剣を叩き込んだ。
黒い肉が裂ける。
赤黒い血飛沫。
魔獣が咆哮する、その隙に。
ユラが瓦礫の方へ駆け込んでいた。
灰色の術符が、空中へ何重にも展開される。
「カノン!! 聞こえるなら返事しろ!!」
返答はない。
ユラが舌打ちする。
巨大な柱。
普通なら、人力で動かせる重量じゃない。
だがユラは、術符を瓦礫へ叩き込んだ。
青白い稲光が走る。
空気が軋む。
瓦礫が、わずかに浮いた。
「ッ……!」
ユラの顔が歪む。
額へ汗が滲む。
相当無理をしている。
魔獣がそれに気づく。
巨大な赤黒い瞳が、ユラ達を捉えた。
嫌な予感。
魔獣の翼が開く。
次の瞬間、響は叫んでいた。
「ユラァ!!」
魔獣が突っ込む。
速い。
地下空間を抉りながら、一直線に。
ユラは振り向かない。
歯を食いしばったまま、術式を維持し、叫ぶ。
「こっちは任せろ!!」
言いながら響は、ユラの方へ伸びる魔獣の腕へ渾身の一撃を叩き込む。
黒い肉が裂ける。
腕は完全には落ちない。
皮一枚で繋がったように垂れ下がる。
それでも、注意を響へ向けるには十分だった。
「お前は魔獣の方をやれ!!」
響の呼吸が止まりそうになる。
でも止まれない。
ここで退けば、全員死ぬ。
響は大剣を握り直す。
掌が血で滑る。
それでも前へ出る。
魔獣の咆哮が、地下世界を震わせた。
その時、瓦礫がさらに浮き上がる。
柱の下から、白い片翼が見えた。
ユラは歯を食いしばり、術式で巨大瓦礫を浮かせ続ける。
「カノン!! おい、返事しろ!!」
返答はない。
嫌な沈黙。
ユラの顔色が変わる。
浮き上がった瓦礫の下。
そこにいたカノンは、血塗れだった。
白い軍服は原型を失っていた。
肩口は裂け、
脇腹には砕けた石材が食い込み、
白布の下から赤黒い血が溢れ続けている。
崩落の直撃を受けたのだろう。
不自然な方向へ折れ曲がった腕。
力なく垂れ下がる指先。
片翼の羽根は、血と砂で貼り付いていた。
呼吸の動きは、ない。
ユラは慌てて彼女を引きずり出す。
「おい!! カノン!!」
身体を揺さぶる。
反応がない。
ぐらり、と。
頭が力なく揺れる。
支え返す力が、まるでなかった。
ユラの喉が引き攣る。
震える手で首筋へ触れる。
何も返ってこない。
脈がない。
「……ッ」
もう一度確認する。
呼吸。ない。
脈。ない。
床へ血が広がり続けている。
止まらない。
ユラは震える指で、カノンの瞼をゆっくり開いた。
そこで。
見てしまった。
開き切った瞳孔。
焦点の合わない目。
光を映さない瞳。
完全に、生気が抜けていた。
それはもう、何度も死体を見てきたユラだからこそ、理解してしまう。
命の灯が消えた人間の顔だった。
ユラの顔が歪む。
「だめだ……!」
術符が震える。
「息をしてない……!」
「血が止まらない……!!」
焦りで声が裏返る。
ユラは震える手で術式を重ねる。
治癒。
循環。
止血。
だが、反応しない。
カノンの身体はまるで、壊れた器みたいに沈黙していた。
ユラが叫ぶ。
「くそっ……!!」
「くそおおッ!!」
響の耳へ、その声が遠く聞こえた。
地下はまだ崩壊している。
奇跡炉も暴走している。
魔獣もいる。
なのに。
そこだけ、急に世界の音が消えたみたいだった。
響は動けない。
瓦礫の向こう。
血塗れの軍服だけが見える。
山吹色の髪。
動かない片翼。
さっきまで、確かに生きていた。
剣を振っていた。
それが今は、ただ静かだった。
響の喉が震える。
「……うそ、だろ」
掠れた声だった。
返事はない。
その時だった。
地下深部から、黄金色の光が漏れた。
奇跡炉の赤黒い暴走光とは違う。
もっと澄んだ、柔らかく、神聖な輝き。
ユラが目を見開く。
「……金翼」
王が地下室へ保存し続けていた、カノンの左翼。
十年間燃やされず壊されず。
ただそこに在り続けた、黄金の翼。
奇跡炉との共鳴。
地下空間へ、黄金の粒子が溢れ出す。
瓦礫の隙間。
崩落した柱の奥。
そこから光が、呼吸みたいに脈打っていた。
黄金の粒子が、ふわりと舞い降りる。
ユラが息を呑む。
地下深部から溢れ出した光が、まっすぐカノンへ集まり始めていた。
白金色の粒子。温かい光。
それはまるで、彼女を探しているみたいだった。
次の瞬間。
カノンの背中が、淡く発光する。
失われた左側。
何もないはずの場所へ、黄金の粒子が吸い込まれていく。
羽根。輪郭。光。
砕けた粒子が、空中で翼の形を描いていく。
そして。
黄金の片翼が形成された。
不完全。儚い。今にも崩れそうな幻。
それでも、失われた形だけは確かにそこにあった。
地下空間が静まる。
暴走していた奇跡炉さえ、一瞬だけ息を呑んだみたいだった。
カノンの指先が、ぴくりと動く。
ユラの目が見開かれる。
次の瞬間。
カノンが、血を吐くように息を吸った。
「――ッ、ぁ!!」
大量の空気を肺へ流し込む。
止まっていた心臓が、無理やり動き出したみたいに。
ユラが呆然とする。
「……うそ」
掠れた声だった。
「戻って、きた……?」
カノンは荒い呼吸のまま、ゆっくり身体を起こす。
頬を血が流れる。
呼吸も乱れている。
それでも。
その瞳だけは、真っ直ぐ前を見ていた。
黄金の翼が、熱風の中で揺れる。
土煙の奥。
ゆっくりと、カノンが立ち上がる。
山吹色の髪。赤い軍服。片手の大剣。
そして背中には。
神々しく輝く、金銀の翼。
まるで天使だった。
地下世界の崩壊の中で、そこだけ別の神話みたいに光っている。
響が息を呑む。
魔獣ですら、動きを止めていた。
だが。
カノンはその神々しさを、全部ぶち壊すみたいに。
「……ペッ」
口の端から血を吐き捨てた。
頬には血。呼吸も荒い。翼も不完全。
なのに。
その立ち姿だけは、誰より強かった。
大剣を肩へ担ぐ。黄金の羽根が、熱風の中で揺れる。
ユラは完全に腰を抜かしていた。
「は……」
「はぁぁ!?!?」
黄金の翼が広がる。
地下空間へ、光が舞う。
魔獣が、その姿を見て止まった。
完全に、時間が止まったみたいに。
響はその隙を逃さなかった。
床を蹴る。大剣を構える。
魔獣の胸部――赤黒い肉の奥で脈打つ核へ飛び込む。
王の剣技。
でも、今それを振るっているのは響自身だった。
刃が突き刺さる。
魔獣が絶叫する。
次の瞬間。
響の意識が、深い場所へ引き込まれた。




