第12話 - 「Last Vane」①
王の咆哮が、地下世界を揺らした。
暴風。衝撃波。
奇跡炉の光柱が、狂った心臓みたいに脈動する。
壁面の術式が、次々と焼き切れていく。
青白かった光は、赤黒く染まり始めていた。
王城最下層。
巨大地下空間そのものが、崩壊を始めている。
天井から瓦礫が落ちる。
床が裂ける。
熱風が吹き荒れ、空気そのものが悲鳴を上げていた。
魔獣はゆっくり立ち上がる。
巨大だった。
黒い骨格。脈打つ赤黒い肉。漆黒の翼。王冠みたいに捻れた角。
その姿は、まるで“王”という概念そのものが、怪物へ成り果てたみたいだった。
カノンは息を呑む。
魔獣の胸部だけが、妙に人型を残している。
歪な肋骨の奥。
赤黒い肉の中心。
そこだけが、まだ“人間”へ縋っているみたいに見えた。
奇跡炉から、赤黒いエネルギーが噴き上がる。
次の瞬間、空間が裂けた。
ビキビキ、と。
ガラスへ亀裂が走るみたいに、地下空間のあちこちへ黒い裂傷が広がっていく。
その裂け目の向こう。
現代日本の景色が断片的に映り込んでいた。
深夜の高速道路。停電した住宅街。赤く点滅する信号機。コンビニの非常灯。
スマホのライトを握って不安げに立ち尽くす人々。車のクラクション。サイレン。雑踏。
現代世界の音が、異世界の地下空間へ混ざり込んでくる。
ユラの顔色が変わる。
「まずい……門が完全に裂ける……!」
裂け目の向こうから、赤黒い光の粒子が流れ込んでくる。
熱。電気。命。
現代世界の循環エネルギー。
本来、二つの世界を循環するはずだった力。
それら全てが、暴走した門を通して、魔獣へ吸い上げられていた。
魔獣の肉体が、脈打つ。
黒い翼が大きく広がる。
その度に、地下空間の重力が歪む。
響は崩れた床へ手をつきながら、息を呑んだ。
魔獣の赤黒い瞳が、ゆっくりこちらを向く。
その瞬間、響の頭へ知らない感情が流れ込んできた。
飢え。渇き。恐怖。消えたくない。終わりたくない。生きたい。
あまりにも生々しい感情だった。
響の顔が歪む。
「……っ」
これは王だ。
魔獣になってもなお、あの王の感情が残っている。
完全な怪物じゃない。だから余計に恐ろしい。
魔獣が一歩踏み出す。
腹の底へ響く破砕音。
石床が砕け、衝撃波が地下空間を走る。
吹き飛ばされた瓦礫が、壁へ激突した。
カノンが即座に響の前へ出る。
大剣を構える。
片翼が大きく揺れた。
魔獣の赤黒い瞳が、ゆっくり二人を捉える。
響を見る。その奥に残った、自分の欠片を見るみたいに。
次の瞬間、視線がカノンへ揺れる。その瞳が、苦しそうに歪んだ。
まるで、器へ戻りたいのか、彼女へ縋りたいのか。
自分でも分からなくなっているみたいだった。
魔獣が頭を抱える。
黒い爪が、自分の肉を抉る。
咆哮。苦悶。
その奥でほんの一瞬だけ。
王の顔が見えた気がした。
ユラが歯を食いしばる。
「……世界そのものを喰って、現世へ固定してる……!」
灰色の耳が震える。
奇跡炉の光は、既に制御限界を超えていた。
地下空間へ裂けた無数の境界裂傷。
その向こうから、現代世界のエネルギーが流れ込み続けている。
もしこのまま暴走が進めば。
門は完全崩壊する。
二つの世界の境界が混ざる。
その中心にいるのは、あの魔獣だ。
次の瞬間。
空気が押し潰されるような音がした。
巨大な腕が振り下ろされた。
地下世界そのものが軋む。
響は反射的に跳ぶ。
直後、床が爆発した。
凄まじい衝撃。
石床が粉々に砕け、爆風みたいに石片が吹き飛ぶ。
耳が潰れる。肺が軋む。
衝撃波だけで、全身の骨が悲鳴を上げた。
響は地面を転がる。
熱い。痛い。
だが、身体が、勝手に動いていた。
崩落する瓦礫。
吹き飛ぶ石片。
その隙間を、最小限の動きで抜ける。
知らない重心移動。
踏み込み。受け身。
まるで何百回も戦場を生き延びてきたみたいに、身体が最適解を選び続ける。
王の記憶。王の戦闘技術。
でも、今の響は、それを“自分の意思”で使っていた。
瓦礫を蹴る。着地。
次の瞬間。
崩れた壁際から、何か巨大なものが倒れてきた。
鉄の激突音。
地面へ突き刺さる。
一本の大剣だった。
おそらく地下の武器庫か、封印騎士の装備だろう。
地震で固定が外れ、転がり落ちてきたのだ。
長い柄。黒鉄の刀身。
普通の人間なら、持ち上げるだけでも苦労しそうな重量。
響の目がそれを捉える。
その瞬間頭の奥で、何かが繋がった。
握れる。
なぜか、そう分かった。
魔獣の巨大な影が迫る。考える暇なんてない。
響は床を蹴った。滑り込む。
片手で柄を掴む。
重い。だが。
身体の使い方を、知っていた。
腰を落とす。重心を後ろへ流す。
足で持ち上げる。
次の瞬間、響は大剣を振り上げていた。
風が唸る。
自分でも信じられないほど、自然な軌道だった。
魔獣の腕が振り下ろされる。
響は反射的に剣を横へ構える。
金属と骨が噛み合うような凄まじい音が弾けた。
重すぎる衝撃が、両腕を貫いた。
普通なら、そのまま押し潰されていた。
だが響は、半歩だけ身体をずらす。
力を真正面から受けない。
流す。
逸らす。
王の剣術。
巨大な腕が、軌道を僅かに逸れる。
その隙間を白い影が駆け抜けた。
カノンだった。
空を失った代わりに、彼女は地上そのものを翼にしていた。
山吹色の髪が、崩壊する地下空間を炎みたいに駆け抜ける。
巨大な瓦礫を蹴る。
砕けた柱を踏み台にする。
崩落しかけた壁面を、片翼の騎士が垂直に駆け上がる。
速い。
あまりにも。
飛べない代わりに、彼女は“落ちない”。
常に地面を掴み、空間そのものを蹴って加速していく。
魔獣の巨大な腕が振るわれる。
暴風。
だがカノンは、その軌道へ潜り込む。
黒い爪の隙間を滑り抜け、懐へ飛び込んだ。
大剣が閃く、白銀の軌跡。斬撃。
漆黒の翼が切り裂かれる。
黒い羽根が、地下空間へ吹き散った。
魔獣が咆哮する。
だが浅い。切断面が瞬時に再生していく。
赤黒い肉が脈打ち、裂けた翼を無理やり繋ぎ直す。
再生速度が速すぎる。
カノンは舌打ちし、着地と同時に再加速する。
止まれば死ぬ。
地下空間そのものが崩壊していた。
瓦礫。爆風。熱波。裂けた空間。
そこを縫うように、彼女は走る。
魔獣が腕を振り上げる。巨大な影がさす。
次の瞬間、振り下ろされる。カノンの真上へ。
響の呼吸が止まる。
速い。避けられない。だが。
――止まった。
寸前で、巨大な腕が静止する。
空気が震える。
黒い爪が、カノンの頬へ触れる寸前で痙攣していた。
あと数センチ。
それだけで、彼女の身体は粉砕されていた。
なのに、動かない。
魔獣の腕が、まるで見えない何かへ抗うみたいに、激しく震えている。
暴風だけが吹き荒れる。
その中心で、カノンの山吹色の髪だけが、静かに揺れていた。
時間が止まったみたいだった。
響は息を呑む。
魔獣の赤黒い瞳。
その奥で、ほんの一瞬だけ。
“王”の目が揺れる。
響は理解する。
「……攻撃、できないのか」
その瞬間。
魔獣が苦しむみたいに咆哮した。
巨大な腕が、無理やり軌道を逸らされる。
爪が地下床を叩き割った。
瓦礫が爆ぜ、赤黒い光の中へ散る。
カノンは爆風の中を滑るように離脱する。
着地。片膝。
すぐに再び剣を構える。
だがその表情は、いつもの騎士の顔じゃなかった。
揺れている。苦しそうだった。
魔獣は荒い呼吸を繰り返している。
まるで、身体の中で、“王”と“怪物”が喧嘩しているみたいに。
魔獣の瞳が揺れる。
怒り。苦痛。執着。
そして、どうしようもない愛情。
それら全部が混ざっていた。
魔獣が咆哮する。
次の瞬間、空間そのものが裂けた。
奇跡炉がさらに暴走する。
天井崩壊。
巨大な瓦礫が降り注ぐ。
響が振り向いた瞬間だった。
嫌な音がした。
足元。
術式で焼かれ続けていた床が、限界を迎えていた。
ビキビキ、と亀裂が一気に走る。
「――ッ」
身体が傾く。
床そのものが崩落した。
響の視界が揺れる。
反射的に大剣を突き立てようとする。
だが遅い。
崩れた床へ足を取られ、体勢が完全に崩れる。
その瞬間頭上でさらに大きな破砕音が響いた。
響が顔を上げる。
天井。巨大な柱。崩れてくる。
奇跡炉暴走の衝撃で、地下空間そのものが耐えきれなくなっていた。
何十トンあるかも分からない瓦礫が、一直線に落下してくる。
避けられない。そう理解した瞬間だった。
山吹色が、視界を横切る。
速い。炎みたいに。
「響ッ!!」
ドンッ――!!
凄まじい衝撃。
響の身体が、横から強引に突き飛ばされる。
床を転がる。
石片が頬を裂く。
肺から空気が抜ける。
次の瞬間。
地下を揺らす衝撃が走った。
巨大な柱が落下する。
地下空間全体が震え、爆発みたいに土煙が吹き上がった。
視界が白く染まる。
耳鳴り。
崩落音。
悲鳴みたいに軋む術式。
響は咳き込みながら、瓦礫へ手をついた。
肺が痛い。頭が回らない。
それでも。
嫌な予感だけが、全身を貫いていた。
響はゆっくり顔を上げる。
そして。凍りつく。
崩れた巨大柱。
砕けた石材。
その下から。
山吹色の髪が、僅かに覗いていた。
カノンだった。




