第11話 - 「繋がりを断つ剣」②
響の身体は、目に見えて蝕まれていった。
最初は一瞬だった。
口調。視線。癖。
ふとした瞬間、別人みたいになるだけだった。
だが今は違う。
王の人格が表へ出る時間が、確実に増えている。
術の反動で熱を出した夜。
響は眠ったまま、知らない言語で誰かへ命令を下していた。
朝になれば本人は覚えていない。
食事中、無意識に王国式の作法で杯を持つ。
戦闘では、響自身も知らない剣技を使う。
そして何より。最近の響は、時々カノンを見る目が変わる。
十九歳の少年の目じゃない。長い時間を生き、多くを失い、それでも何かへ縋ろうとする男の目。
その視線を向けられるたび、カノンの胸は酷くざわついた。
もう時間がない。
ユラはそう断言した。
「このまま融合が進めば、
最後には区別できなくなる」
「響が消える」
だから残された方法は、もう一つしかなかった。
“繋がりそのもの”を斬る。
王城地下最深部、奇跡炉の中心核。
巨大な光柱が、天井へ向かって脈動している。
青白い光が、地下空間全体を照らしていた。
空気が重い。耳鳴りがする。
世界そのものが軋んでいるみたいだった。
床一面へ描かれた巨大術式の中心。
響が立っている。
いや。立たされている。
全身へ黒い紋様が浮かび、血管みたいに脈打っていた。
響は苦しそうに呼吸している。
だが、ふっと顔を上げた瞬間。
空気が変わった。
カノンの呼吸が止まる。
目の前にいるのは、もう響じゃない。
響の顔で、王が笑っていた。
「……随分、
酷い顔をするようになったな」
低い声。落ち着いた口調。
あまりにも自然だった。
まるで最初から、そこにいたみたいに。
カノンの指先が震える。
王は術式の光を背に、静かに彼女を見る。
その目には、怒りもない。
憎しみもない。
ただ、どうしようもない疲労と、少しの優しさだけが残っていた。
「お前は優しいな、カノン」
その声音に、カノンの喉が強張る。
駄目だった。
その声は、あまりにも昔と同じだった。
雪の戦場。背中合わせ。夜の執務室。酒瓶。包帯。
片翼の自分を、初めて“役に立つ”と言ってくれた男。
記憶が、一気に蘇る。
剣を握る手から、力が抜けそうになる。
するとユラの怒声が響いた。
「迷うな!!」
灰色の術符が、空中へ展開される。
術式が悲鳴みたいに軋む。
響――いや王の身体から、黒い靄が浮かび上がる。
それは一本の巨大な楔みたいだった。
黒い杭。
響の胸を貫き、その奥深くへ食い込んでいる。
脈動している。
まるで生きているみたいに。
カノンの瞳が揺れる。
その“境界”が見えていた。
混ざり合っている。
でも、完全には一つになっていない。
どこが響で、どこからが王なのか。
その継ぎ目だけが、なぜかはっきり分かった。
ユラが低く言う。
「二面性を切り裂かれる感覚を、
身をもって知ってる者には境界が見える」
カノンの指先が震える。
右の白銀。失われた左の金。
かつて一つだったもの。
彼女自身もまた、引き裂かれた存在だった。
カノンは小さく息を吐く。
「……つまり」
震える声。
それでも、彼女は剣を握り直した。
「私にしか、できない」
ユラが叫ぶ。
「今しかない!!」
「それを断て!!」
王は静かにカノンを見る。
逃げない。抵抗もしない。ただ。少しだけ寂しそうに笑った。
「……そうか」
その声音には、諦めと同時に、まだ手放しきれていない執着が滲んでいた。
その顔が、どうしようもなく人間らしくて。
カノンの視界が滲む。
でも。終わらせなければならない。
このままでは、響が消える。
王も、永遠に終われない。
カノンは震える息を吐く。
そして。
大剣を構えた。
両手が震えている。
涙が落ちる。
それでも、前へ出る。
刃が、青白い光を裂いた。
斬ったのは肉体じゃない。
響と王を繋ぎ止めていた、魂の楔。
刃が触れた瞬間。
世界そのものが、絶叫した。
――
刃が、魂の楔を断ち切った瞬間だった。
世界がひっくり返る。
凄まじい衝撃波が地下空間を揺らした。
奇跡炉の光柱が暴れ狂い、壁面の術式が次々と焼き切れていく。
響が絶叫した。
同時に彼の胸元から、黒い光が引き剥がされる。
それは液体みたいでも、煙みたいでもあった。
どろりと粘つきながら、響の身体へ食い込んでいた“何か”が、無理やり剥離していく。
響が床へ崩れ落ちる。
全身から黒い紋様が消え、荒い呼吸だけが残った。
だが、引き剥がされた黒い光は、その場へ留まらなかった。
空中で脈動する。
収縮。膨張。
まるで、何かを探しているみたいに。
ユラの顔色が変わる。
「まずい……!」
黒い光の中心で、男の輪郭が浮かび上がる。
王。
半透明の魂。
輪郭は不安定で、今にも霧散しそうだった。
当然だ。
肉体を失った魂は、本来この世界へ存在し続けられない。
循環へ還る。
消える。
終わる。
――そのはずだった。
王は苦しそうに胸を押さえる。
その表情に、もう威厳はなかった。
ただ、耐え切れない痛みに、壊れそうになっている男の顔。
王が口を開く。
「……ぁ……」
声にならない。次の瞬間。
絶叫。
地下空間そのものが震えるほどの悲鳴だった。
怒りじゃない。憎しみでもない。もっと根源的な。
生き物が、存在そのものを引き裂かれる時の叫び。
カノンの顔が強張る。
王の魂が、崩れ始めていた。
輪郭が裂け、黒い粒子となって空中へ散っていく。
だが、その瞬間。
奇跡炉が暴走した。
轟音。
地下深部から、赤黒い光が噴き上がる。
術式が反転する。世界境界が軋む。
ユラが叫んだ。
「違う!!
循環へ落ちてない!!」
本来なら、魂はそのまま世界循環へ還るはずだった。
王の魂が、何かへ縋るみたいに空間を掻く。
すると。
奇跡炉の中心へ、膨大なエネルギーが流れ込み始めた。
熱。命。電気。光。
現代世界から奪われ続けていた、膨大な循環エネルギー。
響を通して流入していた力が、一気に王へ集束していく。
地下空間の温度が急上昇する。
空気が歪む。壁が軋む。
響が息を呑んだ。
黒い光が、肉を持ち始めている。
最初は骨。
巨大な黒い骨格が、空中へ組み上がっていく。
次に筋肉。
赤黒い肉が、脈打ちながら絡みつく。
さらに……羽。
漆黒の翼が、裂けるように広がった。
だがそれは、カノンの翼みたいな神聖なものじゃない。
羽根の一本一本が、煤けた刃物みたいに歪んでいる。
頭部からは、王冠みたいに捻れた角が伸びる。
顔はもう人間じゃない。
けれど。
胸部だけが、妙に人型を残していた。
まるで王という存在が、完全には人間を捨てきれていないみたいに。
肉体が完成するたび、地下が揺れる。
奇跡炉のエネルギーが、無理やり現実へ固定しているのだ。
ユラが歯を食いしばる。
「……肉体を作ってる」
「循環に落ちる前に、
現世へ自分を固定する気だ!」
魔獣の巨大な腕が、ゆっくり床へ触れる。
ゴギッ、と、石床が砕けた。
その瞬間、響は理解する。
――物理存在になった。
斬れる。
そして。
――殺せる。
魔獣がゆっくり顔を上げる。
赤黒い瞳。
その奥にだけ、まだ王の面影が残っていた。
次の瞬間、咆哮。
暴風みたいな衝撃波が、地下空間を吹き飛ばした。




