第10話 - 「喉元の剣」②
呼吸が浅くなる。
指先から力が抜けそうになる。
刃が震える。
響はそんな彼女を見つめたまま、ふっと目を細めた。
その表情まで、王によく似ていた。
優しいようで。諦めたようで。どこか疲れている顔。
カノンの脳裏に、十年前の雪景色が蘇る。
吹雪の戦場。血塗れの王。背を預け合った夜。
『お前だけは、私を恐れないな』
その声と共に。
響がゆっくり身体を起こす。
カノンは反射的に剣を引こうとした。
だが。
響が一歩近づいたせいで、刃先はなお喉元から離れなかった。
まるで、自ら刃へ近づくみたいに。
カノンの呼吸が止まる。
響はそのまま立ち上がる。
長い影が月明かりの中で揺れた。
刃先が、響の首筋をなぞる。
それでも響――いや、“王”は動じない。
静かな目だった。
覚悟を決めた人間の目。
いや。
全てを諦めた王の目。
「……っ」
カノンの指先が震える。
近い。
あまりにも近い。
目の前にいるのが、響なのか、王なのか。
分からなくなる。
あの声。あの温度。全部が重なる。
やめて。違う。これは響だ。王じゃない。
そう思った瞬間だった。
響が突然、苦しそうに顔を歪める。
「っ……!」
片手で頭を押さえる。
呼吸が乱れる。
さっきまでの静けさが、一気に崩れた。
「ちが……っ」
掠れた声。
響は何かを振り払うみたいに、強く頭を抱える。
「今の……俺……」
その目には、はっきり怯えがあった。
自分の中にいる“何か”への恐怖。
響自身が、一番分かってしまっている。
侵食が進んでいる。
自分が、自分じゃなくなっていく。
カノンは動けなかった。
喉元へ向けた剣も、下ろせない。
響は荒い呼吸のまま、震える声で呟く。
「……こわ、いんだ」
その言葉は王ではなく。ただ響自身の声だった。
カノンは動けなかった。
喉元へ向けた剣も。
震える指先も。
何も。
まるで身体だけが、時間から取り残されたみたいだった。
響はまだ荒い呼吸を繰り返している。
額には汗が滲み、黒髪が張り付いていた。
さっきまでそこにいた“王”の気配は、もう薄れている。
代わりに残っているのは、怯えた十九歳の少年だけだった。
響は呼吸を整えようとして、何度か失敗する。
そして、苦しそうに目を伏せた。
「……最近、分かるんだ」
掠れた声。
「頭の中に、誰かいるみたいで」
カノンの肩が、ぴくりと揺れる。
響は自嘲するみたいに笑った。
けれど全然笑えていない。
「知らねえ景色とか、知らねえ感情とか、勝手に流れてくるし」
「お前見てると、時々すげえ苦しくなる」
その言葉に、カノンの喉が詰まる。
響は知らない。
彼が感じている感情の一部が、どれだけ重いものなのか。
響は震える息を吐く。
「……でも最近、俺、自分がどこまで俺なのか、分かんなくなる時がある」
静かな声だった。
叫びでも、取り乱しでもない。
だからこそ、余計に痛かった。
本当に怖いのだ。
侵食されることが。
消えていくことが。
響はゆっくりカノンを見る。
喉元にはまだ刃。
少し動けば、皮膚が裂ける距離。
なのに彼は、逃げなかった。
ただ静かに言う。
「もし俺が俺じゃなくなったら……」
言葉が途切れる。少しだけ迷って。
それでも響は、ちゃんとカノンを見たまま続けた。
「その時は、斬ってくれ」
その声音だけは。
王ではなかった。
誰かを支配する声じゃない。
命令でもない。
ただ、自分を失うことを恐れている、一人の少年の声だった。
カノンの指から、力が抜ける。
カラン、と。
刃先が床へ触れ、鈍い音が響いた。
下ろされた剣が、月明かりを反射する。
カノンは俯く。
視界が滲んでいた。
駄目だった。
もう。
響を、王としてだけ見ることができない。
殺さなければならない敵として、
割り切れない。
響は王じゃない。
違う。ちゃんと違う。
なのに。
時々どうしようもなく、王が重なる。
それが苦しくて。怖くて。
どうしたらいいのか分からない。
ぽたり、と。
雫が床へ落ちた。
カノンは息を呑む。
遅れて気づく。
自分が泣いていることに。
涙なんて、いつ以来だろう。
王の前でも。
翼を失った時でも。
両親が死んだ時でさえ。
泣かなかったのに。
今、止まらない。
カノンは顔を伏せたまま、小さく肩を震わせる。
声を殺すみたいに。
壊れたみたいに。
静かに泣き続けた。




