第10話 - 「喉元の剣」①
その夜、王城の客間には静かな雨音だけが響いていた。
窓の外では白い月が雲に滲んでいる。
斎木響は、簡素な寝台の上で眠っていた。
規則正しい寝息。
無防備な横顔。
十九歳の少年の顔。
――なのに。
カノンは、その顔を真っ直ぐ見られなかった。
部屋の隅。
彼女は壁へ背を預け、静かに剣を抱えている。
大剣の重みだけが、かろうじて自分を現実へ繋ぎ止めていた。
地下室で見たものが、頭から離れない。
暗い部屋。冷たいガラスケース。白い花。保存術式。
そして自分の翼。
十年前に奪われた、金色の翼。
傷ひとつなく、まるで宝物みたいに飾られていた。
あの光景を思い出すたび、胸の奥がぐちゃぐちゃになる。
怒りたかった。憎みたかった。化け物だと叫びたかった。
なのに、どうしてあんな風に保管していたのか、分からなくなってしまった。
利用するためなら、使えばよかったはずだ。
他の翼みたいに。
奇跡炉へ放り込み、燃やして、消耗品みたいに使えばよかった。
でも、あれだけは違った。
あの翼だけまるで、失いたくなかったみたいに。
それが怖い。
理解したくないのに、胸のどこかが理解してしまう。
もし全部嘘だったなら、どれだけ楽だっただろう。
利用されていただけなら。
騙されていただけなら。
あの王を、ただ憎めたなら。
そうしたらきっと。
響の中に王を見つけても、迷わず剣を振れた。
カノンは唇を噛む。
視線の先、寝台の上で、響が小さく寝返りを打つ。
漆黒の髪が、月明かりを受けて揺れた。
びくり、と心臓が跳ねる。
今の横顔が、あまりにも王に似ていた。
最近増えた。
ふとした瞬間、響の中に“王”が現れる。
怒る時。命令する時。誰かを守ろうとする時。
そして。
私を見る時。
地下室から戻る途中もそうだった。
カノンが足を止めた時、響は何も言わず隣に立った。
その視線。距離感。気遣い方。全部。
昔、王がしていたことと同じだった。
思い出してしまう。
まだ近衛になったばかりの頃。
訓練で指を潰して、誰にも見つからない場所で手を震わせていた時。
王は何も言わず、包帯だけ置いて去っていった。
片翼を侮辱され、周囲に笑われた夜。
王だけが、黙って酒を隣へ置いた。
優しかった。
確かにあの人は、優しかったのだ。
カノンは目を閉じる。
駄目だと思う。そんなことを思い出してはいけない。
なのに記憶は止まらない。
雪の戦場。血塗れの剣。背中合わせ。自分の名前を呼ぶ声。
『カノン』
低く、疲れていて、それでも安心する声。
カノンの指先が震える。
気づけば、剣の柄を握る力が強くなっていた。
視線が、再び響へ向く。
眠っている。
ただの少年だ、王じゃない。
違う。違うはずなのに。
最近、分からなくなる。
響を見ているのか。
王を見ているのか。
自分が守りたいのは誰なのか。
自分が憎んでいるのは誰なのか。
胸の奥で、感情がぐちゃぐちゃに絡まっていた。
カノンは静かに息を吐く。
吐いた息が、ひどく冷たかった。
カノンはゆっくり立ち上がる。
鎧が微かに鳴った。
その音だけで、胸の奥が痛む。
彼女は無言のまま、寝台へ近づいていく。
月明かりが、床へ白く落ちていた。
響は眠っている。無防備に。
何も知らない顔で。
長い睫毛。少し乱れた黒髪。規則正しい呼吸。
こんな時まで、王とは似ても似つかない。
十九歳の、ただの少年だった。
カノンは足を止める。
右手に握った大剣が、やけに重い。
今まで何百何千と振ってきた剣なのに。
魔物を斬った。敵兵を斬った。
国のために、迷わず命を奪ってきた。
なのに。
たった一人へ向けるだけで、腕が動かない。
カノンは静かに剣を持ち上げる。
鈍い銀色の刃が、月光を反射した。
切っ先が、ゆっくり響の喉元へ向く。
白い首筋。
そこへ刃を滑らせれば、きっと一瞬だ。
これで終わる。
ここで殺せば、王は完全には蘇らない。
響の命ごと“あれ”を、断ち切れる。
世界も。自分も。これ以上壊れなくて済む。
そう、分かっている。
分かっているはずなのに。
刃先が震える。
カノンは唇を噛んだ。
脳裏に浮かぶのは、地下室の翼。
王の声。戦場。雪。包帯。酒瓶。
自分を見つけてくれた人。
自分を壊した人。
そして。
旅の途中で笑っていた響の顔。
市場でくだらない冗談を言っていた声。
自分を庇って傷を負った時の顔。
「痛かったよな」と、まるで当たり前みたいに言った声。
違う。王はそんな風に言わない。
響は王じゃない。
でも、最近時々、分からなくなる。
響の中へ、王が滲んでいく。
このまま侵食が進めば、いつか本当に消える。
十九歳の少年が、あの男に。
カノンの喉が震える。
怖かった。
王が蘇ることが。
でもそれ以上に。
響が消えてしまうことが、怖かった。
切っ先が、ほんの僅かに首筋へ触れる。
白い肌。
その熱が、刃越しに伝わる。
生きている。当たり前みたいに。ちゃんと。
その時だった。響の睫毛が、微かに揺れる。
カノンの呼吸が止まる。
ゆっくりと。本当にゆっくりと。
響が目を開けた。
黒い瞳が、月明かりを映す。
数秒の沈黙。
響はぼんやりと天井を見ていた。
寝起き特有の、意識の曖昧な視線。
だが。その目が、カノンを捉えた瞬間。
空気が変わった。
カノンの背筋に、氷水を流し込まれたみたいな悪寒が走る。
響は、喉元へ突きつけられた刃を見ても動じなかった。
驚きも恐怖も混乱もない。
ただ静かに、カノンを見上げている。
まるで最初から分かっていたみたいに。
その視線。
その目。
カノンは知っている。
忘れるはずがない。
戦場で。玉座で。雪の夜で。
何度も見てきた目だ。
響はしばらく彼女を見つめたあと、静かに口を開く。
「……お前なら、そうすると思っていた」
低い声。落ち着いた声音。
十九歳の少年のものじゃない。
その瞬間。
カノンの顔から血の気が引く。
心臓が、嫌な音を立てた。
王だ。
今のは完全にあの人だった。




