第9話 - 「王の愛」③
夕方。
山間の寺院集落は、薄い橙色の光に包まれていた。
石畳。灯籠。風に揺れる白布。
本来なら静かで、穏やかな場所だった。
けれど、カノンにとっては違う。
「……ほんと気味悪い翼」
井戸端で、年上の翼持ちたちが笑う。
「気味悪いよね」
「不吉の子」
「半端者」
聞こえるようにわざと。
十五歳のカノンは、黙ったまま水桶を抱えていた。
背中の翼が揺れる。
右は白銀。
左は金色。
本来、翼は左右対称であるべきだった。
色違いは異常。
奇跡回路不全。
だからカノンは、飛べない。奇跡を起こせない。
――神に愛されていない。
そう言われ続けて育った。
子供の頃は泣いていた。
でももう泣かない。
代わりに、剣だけ強くなった。
悔しくて。認められたくて。
カノンは無言で歩き去る。
その背へ、また笑い声が飛ぶ。
「ああいうのが一番嫌なんだよね」
「出来ないくせに特別扱いされそうで」
カノンの指先が強く握られる。
その日の夜だった。
鐘が鳴る。
警鐘。
空気が震えるほどの大音量。
カノンは飛び起きた。
次の瞬間、地面を揺らす衝撃が走る。
寺院の結界が砕け散る。
外が赤い。
炎。悲鳴。
誰かが叫んでいる。
「襲撃だ!!」
カノンは剣を掴み、外へ飛び出した。
地獄だった。
白い寺院が燃えている。
結界柱は黒く汚染され、空には裂け目が走っていた。
そこから、黒い異形が這い出してくる。
それだけではない。
異形の出現に紛れて、武装した者たちが動いていた。
傭兵。顔を隠した兵士。
どこの所属とも分からない者たち。
だが彼らは、偶然そこにいるようには見えなかった。
迷いなく翼持ちを狙い、倒れた者の背へ群がっていく。
「羽を回収しろ!」
「生死は問うな!」
「逃がすな!」
夜空へ白い羽が散る。
血みたいに。
カノンは歯を食いしばる。
恐怖より先に、怒りが来た。
剣を抜く。飛べない。奇跡も使えない。
だからせめて戦う。
カノンは異形へ突っ込む。
速い。
低い姿勢から地面を蹴り、黒い獣の脚を斬り飛ばす。
返す刃で、武装した男の喉を裂く。
血飛沫。炎。怒号。
だが、数が多すぎる。
異形が結界を侵食しているせいで、寺院側の奇跡も乱れ始めていた。
翼持ちたちが次々倒れていく。
カノンはさらに踏み込む。
その時。横から黒い巨腕が叩きつけられた。
避けきれない。
空気が破裂するような衝撃。
視界が回転する。
身体が吹き飛ぶ。
森へ。
木々を何本も折りながら、地面へ叩きつけられる。
息ができない。肋骨が軋む。翼が痛い。血の味。視界がぼやける。
遠くで、寺院が燃えている。
立たなきゃ。
戻らなきゃ。
でも身体が動かない。
その時。
誰かの足音が近づいてきた。
重いゆっくりした足音。
カノンは霞む視界を上げる。
黒い外套。雪。大剣。
そして。
月明かりの下で見えた横顔。
――王。
カノンの呼吸が止まる。
どうして。
なんでここに。
だが王は何も言わない。
ただ静かに、カノンの前へ膝をつく。
その目には、奇妙な感情が浮かんでいた。
安堵。痛み。
そして、どうしようもない執着。
遠くで異形の咆哮が響く。
王は振り返る。
次の瞬間、地面が爆ぜた。
王が消える。いや。
速すぎて見えない。
黒い異形が、一瞬で両断される。
炎の向こうで、武装した者たちが吹き飛ぶ。
圧倒的だった。
誰より速く、誰より強い。
雪の夜を、王だけが暴風みたいに駆けていく。
カノンは朦朧としながら、その姿を見つめる。
綺麗だと思った。
怖いくらい。
やがて王が戻ってくる。
返り血まみれだった。
カノンへ手を伸ばす。
その時。
王の視線が、カノンの金翼へ落ちた。
空気が変わる。
王の指先が、ゆっくり翼へ触れる。
熱い。その目は、何かへ取り憑かれたみたいだった。
カノンの意識が霞む。
最後に見えたのは。
泣きそうな顔をした王だった。
そして。
暗闇へ沈む寸前、背中へ焼けるみたいな激痛が走った。
――
そして、部屋の最奥。
そこだけ空気が違った。
地下室全体に漂っていた冷たさが、その一角だけ異様に静かだった。
まるで、誰かがずっと、触れ続けていた場所みたいに。
白い花が供えられている。
保存香の煙が、細く揺れている。
床へ刻まれた術式も、他より遥かに複雑だった。
劣化防止。奇跡循環維持。魂固定。幾重もの保護術式。
他の標本とは、明らかに扱いが違う。
響は息を呑む。
カノンは震えながら、ガラスケースを見つめる。
頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。
憎い。許せない。なのに。
脳裏へ、別の記憶まで蘇る。
片翼になった後。
誰も自分を見なかった。
飛べない。奇跡も使えない。不完全。
だから、剣を振るしかなかった。
訓練場。
血だらけの手。
倒れても立つ。
その時、王が言った。
『……お前、まだ立てるのか』
呆れたみたいな声だった。
でも。
その目は、初めて自分を“まともに見ていた”。
『いいじゃないか』
その一言で、胸が壊れるほど嬉しかった。
誰も欲しがらなかった自分を。
王だけが、必要としてくれた。
だから、忘れられなかった。
たとえ、全部を奪った男だったとしても。
脚から力が抜ける。
カノンはその場へ崩れ落ちた。
大剣が床へ落ち、重い音を響かせる。
響は咄嗟に、カノンの肩を支えようとする。
けれど彼女は、触れられたことすら分からないみたいに、翼から目を離せなかった。
震えている。指先も。呼吸も。
感情の整理が、まるで追いついていない。
周囲の翼は、全部消耗されていた。
削られ。砕かれ。燃やされ。
使い潰されていた。
なのに、この翼だけ違う。
保存されている。
丁寧に。大切に。
まるで宝物みたいに。
カノンは理解してしまう。
王は、自分の翼だけ使わなかった。
消耗品にしなかった。
他と同じ場所へ落とさなかった。
それが何より、苦しかった。
なら、どうして奪ったのか。
使うためではなかったのか。
国を救うためでも、奇跡へ捧げるためでもなかったのか。
使わないなら、なぜ奪った。
守りたかったなら、なぜ壊した。
もし全部ただの利用なら、ただ憎めた。
でもこれは違う。
この地下室のどこよりも、ここだけが“特別”だった。
響の頭へ、また記憶が流れ込む。
静かな地下室。深夜。誰もいない部屋。
三十五歳の王が、一人でガラスケースの前へ立っている。
返り血のない夜。
王冠もない。
ただ疲れ切った男。
王はゆっくり、ガラス越しに金翼へ触れる。
その目は、戦場で誰かを殺す時より、ずっと苦しそうだった。
そして。
『……飛べなくても、お前は綺麗だった』
響の胸が痛む。その感情が、分かってしまう。
失いたくなかった。
誰にも渡したくなかった。
だから閉じ込めた。
壊した本人なのに。
カノンは震える声を漏らす。
「……どうして」
誰へ向けた言葉か、自分でも分からなかった。
どうして奪ったのか。
どうして保存したのか。
どうして愛したのか。
愛されていた。
でも壊された。
救われた。
でも奪われた。
全部が同時に存在していた。
それが、何より残酷だった。
響はそんな彼女を見て、初めて理解する。
この旅で一番苦しんでいたのは、ずっと、カノンだったのだと。




