第9話 - 「王の愛」②
沈黙に支配された一行の意識を、地下最奥に佇む“大扉”が引き戻した。
巨大だった。
人が通るためだけの扉じゃない。
まるで、何か“別の存在”を封じ込めるための門。
黒銀色の表面には、幾重もの封印術式が刻まれている。
円環。翼。光輪。
そして、人間には読めない古代文字。
術式はゆっくり脈打ち、心臓みたいに明滅していた。
ドクン。
ドクン。
地下全体が、その扉と呼吸を合わせているみたいだった。
響の胸が妙に痛む。
鼓動が乱れる。
知らないはずなのに。
この扉を知っている。
ここへ何度も来たことがある気がする。
扉の前へ立ち、封印へ触れる感覚まで、身体が覚えていた。
頭の奥で、また記憶がちらつく。
暗い地下。白い羽。静かな足音。
そして、重い疲労感。
響は思わず息を詰めた。
「……っ」
カノンがすぐ隣を見る。
「響?」
だが響は答えられない。
扉の向こうから、“何か”が呼んでいる感覚がした。
帰ってこいと。
その時、ユラが静かに前へ出る。
灰耳族特有の長い耳が、僅かに伏せられていた。
彼女は改めて扉へ向き直る。
ゆっくり手を伸ばし、封印術式へ触れる。
瞬間、白い光が地下空間全体へ走った。
壁面の術式が一斉に脈打つ。
ドクン。
まるで巨大な生物が、目を覚ますみたいだった。
ユラが低く呟く。
「……まだ生きてる」
術式が軋む。
封印文字が、鎖みたいに浮かび上がる。
一つ、また一つと、光の輪が外れていく。
そのたびに、地下の空気が重くなる。
響の頭痛も強くなる。
脳裏へ、知らない感情が流れ込む。
焦燥。執着。孤独。
そして、どうしようもない後悔。
最後の封印が砕ける。
ガコン。
重い音を立て、巨大な扉がゆっくり開いた。
瞬間、甘い花の香りが漂った。
けれどそれは、どこか異様な匂いだった。
濃すぎる。
花畑みたいな甘さの奥に、薬品にも似た冷たい香りが混ざっている。
長く吸い込めば、頭の奥がぼうっと霞んでいくような匂いだった。
カノンの眉が僅かに動く。
「……聖花」
彼女が小さく呟く。
寺院で使われる特別な花だ。
本来は、死者の魂を安定させるために焚かれる香。
翼持ちが死んだ時、魂が世界循環へ還るよう、祈りと共に焚かれるものだった。
だが。
この部屋に満ちている香りは、本来の使い方とは明らかに違っていた。
香が濃すぎる。
壁際を見ると、無数の香炉が置かれている。
しかも全部、今も微かに煙を上げていた。
ユラが低く呟く。
「……魂の劣化防止」
響が顔をしかめる。
「劣化?」
「翼って、放っとくと奇跡が抜けて腐るんだよ」
ユラはガラスケースを見ながら続ける。
「だから本来は、死んだらすぐ循環へ還す」
だがここでは違う。
還していない。
閉じ込めている。
香と術式で、無理やり“生前の状態”を維持している。
まるで死者を、死なせないみたいに。
響の背筋へ悪寒が走る。
部屋の中は静まり返っていた。
地下の脈動音すら、この空間だけ妙に遠い。
まるでここだけ、時間が止まっているみたいだった。
そこは研究室であり、墓所であり、懺悔室みたいな空間だった。
天井は高い。
白い術光だけが薄暗く揺れ、無数のガラスケースを照らしている。
壁一面へ並ぶ標本。白い羽根。翼の骨。砕けた光輪。奇跡結晶。
どれも丁寧に保管されていた。
いや。
“整理”されていた。
用途ごとに。
種類ごとに。
まるで工房の資材みたいに。
響の喉がひくりと鳴る。
ガラスケースの中には、術式札つきの翼が並んでいる。
『高純度』
『循環適性』
『炉心使用済』
『劣化』
無機質な文字。
それが逆に、生々しかった。
近づくほど、それらが“消耗品”だったことが分かる。
削られた翼。焼け焦げた羽。術式で切断された骨。
羽根の根元には、無理やり引き抜かれた痕跡まで残っていた。
床の一角には、灰になった羽が積もっている。
奇跡を使い潰した残骸。
カノンの呼吸が浅くなる。
幼い頃、寺院で笑っていた人たちの姿が脳裏を過る。
祈り。歌。朝焼けの中を飛ぶ翼。
もうどこにもない。
ここにあるのは、その成れ果てだけだった。
カノンの表情が徐々に強張っていく。
響は隣の彼女を見る。
片翼の騎士は、ずっと前を向いていた。
だがその拳は、白くなるほど強く握り締められていた。
ユラだけが静かに目を伏せている。
彼女は十年前、既にこの光景を見ていた。
そして理解してしまった。
この地下室は、国を救う場所なんかじゃない。
王が、自分の罪を積み上げ続けた場所なのだと。
響の視界が揺れる。
地下室へ満ちる甘い香り。
白い羽。術式の脈動。
それらを見た瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
――知らない記憶。
けれど、今までの断片とは違う。
これはもっと生々しい。
感情まで、皮膚の内側へ流れ込んでくる。
雪が降っていた。
白い王都。
だが美しくなんかない。
路地裏には、痩せ細った人々が座り込んでいる。
パンを奪い合う子供。
倒れたまま動かない老人。
枯れた光樹。
かつて街を照らしていた白い枝は、半分以上が黒く腐っていた。
空中水路も止まり、濁った水が石畳へ垂れている。
街全体が、ゆっくり死んでいた。
響はその景色を、“王の目”で見ていた。
王は黙って歩いている。
厚い外套を被り、護衛もつけず、夜の王都を見回っていた。
住民たちは王へ気づかない。
だが王は、全員を知っていた。
角のパン屋。
いつも喧嘩してる兄弟。
市場の果物屋。
路地裏で歌う子供。
全部、覚えている。
だから余計に、見ていられなかった。
道端で、小さな少女が咳き込んでいる。
魔力欠乏症。
世界循環の崩壊で起きる病。
幼いほど、先に死ぬ。
少女は王へ気づかないまま、母親へ掠れた声で言う。
「ねえ、ひかりの木、いつなおるの」
母親は答えられない。
王の胸が軋む。
何も言えず、ただ立ち尽くす。
その時。遠くで、世界境界が裂ける音がした。
空に黒い亀裂。
雪の中へ、異形の影が落ちる。
悲鳴。
逃げ惑う人々。
王は剣を抜く。
誰より速く、異形を斬り伏せる。
だが倒しても終わらない。
また別の場所で、誰かが死ぬ。
場面が切り替わる。
王城。円卓議場。重い空気。
貴族たちの顔には、疲労と苛立ちが浮かんでいた。
宰相が静かに告げる。
「……西部光樹群、三本目が完全枯死しました」
別の文官が続く。
「循環炉の出力も低下しています。このままでは冬を越えられません」
空気が沈む。
一人の老貴族が、苛立ったように杖を鳴らした。
「だから以前から申し上げている!」
「寺院へ追加支援を要求すべきだ!」
王の眉が僅かに動く。
別の貴族も口を開く。
「翼持ち術者を定期派遣させればよいのです」
「最低でも月に二名」
「あるいは高純度羽根を数枚ずつ献上させるべきかと」
「光樹延命だけなら、それで数年は持つ」
淡々とした口調だった。
まるで薪の話でもしているみたいに。
王の拳が、机の下で軋む。
寺院の翼は、奇跡そのものだ。
羽根一枚で、光樹を延命できる。
水脈を浄化できる。
門を安定化することだってできる。
だから王国は欲している。
だが、寺院側はそれを拒み続けていた。
理由は単純。
『循環へ逆らうな』
世界は衰退している。
ならば滅びを受け入れろ。
寺院はそう考えている。
だが王には耐えられなかった。
見殺しにしろというのか。
民を。
子供を。
街を。
老貴族が吐き捨てる。
「寺院の連中は綺麗事ばかりだ」
別の声。
「……陛下は戦にはお強いのですがな」
静かな笑い。
隠す気もない軽蔑。
王の拳が、さらに強く握られる。
誰も、自分へ期待していない。
戦うことしかできない王。
皆そう思っている。
王は必死に平静を保つ。
「……寺院との交渉は続ける」
だが返ってくるのは沈黙だけだった。
誰も希望を持っていない。
王だけが、まだ諦めていない。
その夜。王はまた街へ出る。
雪。寒さ。静まり返った路地。
そして。昼間見た少女の家の前で、足が止まる。
扉の前に、白布が掛けられていた。
母親の泣き声。
小さな棺。
王の呼吸が止まる。
知っている。あの子だ。
いつも市場で歌っていた子供。
王は動けない。
胸の奥で、何かが軋む。
――間に合わなかった。
その瞬間。
何かが、ぷつりと切れた。
王はゆっくり顔を上げる。
雪の降る空。
黒い亀裂。
滲む異界の光。
その目から、感情が消えていく。
頭の中で、一つの言葉だけが響く。
「……救わなければ」
寺院が渡さないなら。
頭を下げても足りないなら。
どんな手を使ってでも。
もう。
誰にも奪わせない。




