第9話 - 「王の愛」①
ユラに導かれ、響とカノンは王城地下最深部へ降りていく。
王城の地下には、古い時代の増築が何層も重なっていた。
最初はまだ、普通の地下通路だった。
白い石壁。
等間隔に並ぶ燭台。
王家の紋章。
だが、深く潜るほど空気が変わっていく。
湿っている。
冷たい。
まるで巨大な生き物の体内へ入っていくみたいだった。
響は思わず腕を擦る。
「……寒っ」
吐いた息が、薄く白くなる。
カノンも僅かに眉をひそめていた。
この深度まで来るのは、彼女ですら初めてなのだろう。
階段は延々と続く。
石段は中央だけが不自然に擦り減っていた。
長い年月、何度も誰かがここを往復していた痕跡。
だが妙なのは、“人のいた気配”が全くしないことだった。
静かすぎる。
地下なのに、水滴の音すら聞こえない。
代わりに。
ドクン。
どこか遠くで、脈打つような低音だけが響いていた。
響の胸がざわつく。その音を、身体の奥が知っている気がした。
やがて壁面に奇妙な紋様が現れ始める。
複雑な術式。
円環。
羽根を模した文字。
血管みたいに枝分かれした光の線。
淡い白光が、壁の内部をゆっくり流れている。
まるで地下そのものへ、光る神経が張り巡らされているみたいだった。
響が思わず立ち止まる。
「……なんだこれ」
ユラは振り返らず答える。
「門制御術式」
「術式?」
「世界循環を維持するための流路。昔はもっと綺麗だったんだけどね」
よく見ると、光は一定じゃない。
時折ノイズみたいに明滅し、一部は黒ずみ、脈動が乱れている。
壊れかけた心臓みたいだった。
カノンが低く呟く。
「……侵食がここまで」
その声には、隠しきれない緊張が滲んでいた。
さらに下る。
空気が重くなる。
耳鳴り。
響は何度か頭を押さえる。
進むほど、頭の奥の“王”が騒ぎ始めていた。
知らない記憶が、断片的に流れ込む。
暗い地下室。
白い羽。
そして低い声。
『……まだ足りない』
響は息を呑む。
その瞬間。
壁面の術式が一斉に脈打った。
ドクン。
地下全体が、巨大な臓器みたいに震える。
響は思わず壁へ手をつく。
冷たい。なのに。
壁の奥で、何かが生きている感触がした。
ユラだけは平然と歩き続ける。
だが彼女の耳は、僅かに伏せられていた。
嫌な記憶を思い出している顔だった。
やがて階段が終わる。
その先には、巨大な円形空間が広がっていた。
天井は見えないほど高い。
中央には、黒い巨大樹の根みたいなものが脈打っている。
根は壁や床へ食い込み、地下全域へ広がっていた。
その表面には、無数の術式が浮かび続けている。
世界循環炉。
王国の心臓部。
そしてそのさらに奥。
無数の封印術式に閉ざされた、巨大な扉が静かに佇んでいた。
カノンは低く問いかけた。
「……どうしてここを知っているんですか」
地下空間へ、その声が静かに響く。
ユラはすぐには答えなかった。
壁面を流れる白い術光が、灰色の瞳を淡く照らす。
やがて彼女は、少し面倒そうに息を吐いた。
「昔、王を尾けた」
カノンの眉が僅かに動く。
ユラは前を向いたまま続けた。
「寺院側の監視役として、王城来てた時期があったんだよ」
十年前。
寺院襲撃の後も、世界循環維持のため、
寺院の生き残りと王国は最低限の接触を続けていた。
門制御。奇跡流路。循環補修。
完全に断絶すれば、世界そのものが壊れるからだ。
その監視役の一人が、当時十五歳だったユラだった。
「……あの頃の王、どう見てもおかしかったから」
ユラの耳が、僅かに伏せられる。
「術式汚染も酷かったし、夜中になると一人で消えるし」
ドクン。
地下のどこかで、重い脈動音が響く。
響の胸がざわつく。
ユラは少しだけ目を細めた。
「気になって尾けた」
その声音には、もう軽さはなかった。
「そしたら、ここだった」
地下室の記憶が蘇る。
暗い通路。甘く腐った花の匂い。脈打つ術式。
そして地下最深部で見た光景。
無数の翼。砕かれた羽。光輪。術式へ繋がれた骨。
まるで、神様を解体したみたいな部屋だった。
カノンの表情が強張る。
ユラは静かに続ける。
「……で、その奥に王がいた」
響の頭の奥が、またざわつく。
「一人で翼見てたよ」
地下の空気が、少し冷えた気がした。
ユラは笑わない。
怒りもしない。
ただ、理解できなかったものを思い返す顔をしていた。
「変だった」
低い声。
「戦場じゃあんな顔しないくせに」
脳裏へ、十五歳のユラが見た光景が浮かぶ。
地下室。静かな王。ガラスケースの前。
まるで祈るみたいに、翼へ触れていた男。
その横顔は、王というより。
何かを失うのを恐れている、ただの人間に見えた。
ユラは小さく息を吐く。
「……泣きそうな顔してた」
カノンの呼吸が止まる。
ユラはようやく振り返った。
灰色の瞳が、真っ直ぐカノンを見る。
「だから逆に気持ち悪かった」
静かな声だった。
「そんな顔するくらいなら、最初から壊さなきゃよかったのに」
その言葉は、刃物みたいに地下空間へ落ちた。
ユラはその時から知っていた。
この王は、ただ国を救おうとしているだけじゃない。
壊れているのだと。
王城で見る彼は、英雄だった。
誰より強く、誰より堂々としていて、
兵士たちは皆その背中を追っていた。
けれど、地下室で見た男は違った。
暗い部屋の奥。
無数の翼と死骸に囲まれながら、
王は一人でガラスケースを見つめていた。
まるで、自分が壊したものへ縋りついているみたいに。
ユラはあの時、理解できなかった。
どうしてそこまでして国を守るのか。
どうしてそんな顔をするなら、奪うのか。
どうして愛しているものを、自分の手で壊せるのか。
だから怖かった。
悪人なら、もっと簡単だった。
でもあの王は、確かに狂っていて。
同時に、確かに苦しんでいた。
それが一番気味が悪かった。




