第8話 - 「似ていく」③
その夜、響は高熱を出した。
訓練場での“馴染み確認”の反動なのか。
それとも、王都へ入ってから急激に侵食が進んでいるのか。
理由は分からない。
ただ。
彼の身体は明らかに、限界へ近づいていた。
王城の客室。
重厚な石壁に囲まれた部屋は静かだった。
窓の外では、遠く聖堂の鐘が鳴っている。
淡い月光が床へ落ち、白いカーテンを揺らしていた。
響はベッドの上で、苦しそうに息を荒げている。
額には汗。
呼吸も浅い。
時折、何かと戦うみたいに眉を歪めていた。
カノンはベッド脇へ座り、濡らした布を静かに額へ乗せる。
触れた瞬間。
熱い。
まるで身体の内側で、何かが燃えているみたいだった。
カノンは息を詰める。
目の前にいるのは、王ではない。
十九歳の少年だ。
現代日本から突然連れてこられた、ただの学生。
怖がりもする。
戸惑いもする。
冗談めいた文句も言う。
響だ。
そう、自分に言い聞かせる。
だが。
苦しげに寄せられた眉間。
浅く乱れた呼吸。
何かに耐えるように握られた指先。
そのひとつひとつが、記憶の中の王と重なってしまう。
雪の夜。
傷だらけになっても、決して膝をつかなかった男。
血を流しながら、平気な顔で名前を呼んだ男。
カノンは無意識に手を伸ばしかける。
頬に触れようとして。
途中で止めた。
触れてしまえば、また分からなくなる気がした。
この少年を見ているのか。
死んだ王を見ているのか。
自分でも分からなくなる気がした。
部屋の隅で、ユラがそれを見ていた。
何も言わない。
けれど灰色の瞳だけが、静かに細められる。
カノンもまた、限界に近い。
そう言いたげな目だった。
カノンは唇を結ぶ。
違う。
響です。
この人は、響です。
心の中で何度も確認する。
その時。
ユラは部屋の隅で壁にもたれながら、低く呟く。
「馴染みすぎてる……」
「……どういう意味ですか」
カノンの声は硬い。
ユラは少し黙った後、面倒そうに答える。
「普通なら拒絶反応起こすんだよ。魂ってそんな簡単に混ざらない」
視線が響へ落ちる。
「でもコイツ、もう半分くらい“向こう側”になってる」
カノンの指先が僅かに強張る。
その時。
響が小さく何かを呟いた。
「……カノン」
カノンの動きが止まる。
その声は、あまりにも優しかった。
熱に浮かされているはずなのに、どこか安心するみたいな響き。
昔、雪の戦場で、血塗れになりながら、
王が同じ声で自分を呼んだことを思い出す。
『カノン』
あの声に、自分は救われたのだ。
胸の奥が痛む。
カノンは思わず、響の頬へ触れそうになる。
だが次の瞬間。
響の表情が微かに緩む。
そして。
「……誰にも渡さない」
空気が凍った。
カノンの呼吸が止まる。
今の声音は。
十九歳の少年のものじゃない。
低く、静かで、疲れていて。
でも絶対に逆らえない声。
完全に、先王だった。
脳裏へ記憶が蘇る。
地下室。
ガラスケース。
保存された――。
そして、雪の日。
王が、自分の金翼へ触れながら呟いた声。
『綺麗だ』
カノンの背筋へ悪寒が走る。
響は眠ったまま、さらに何かを呟く。
聞き取れない。
でもその口調はもう、響ではなかった。
ユラが静かに目を細める。
「……ほらね」
カノンは何も答えられない。
ただ、ベッドの上の少年を見つめる。
十九歳の響。
でもその奥に、三十五歳で死んだ王がいる。
しかもそれは、ただ憑依しているだけじゃない。
少しずつ、本当に混ざり始めていた。
翌日。
響はカノンに連れられ、王城中枢――円卓議場へ通されていた。
重厚な両開きの扉が開く。
瞬間、空気が変わった。
広い。
天井は異様に高く、白い柱が何本も並んでいる。
壁面には巨大な聖印。
色褪せた旗。
そして最奥。
数段高くなった場所に、白銀の玉座が置かれていた。
響は思わず足を止める。
広間には既に、王国中枢の人間たちが集まっていた。
老いた貴族。
近衛騎士。
文官。
聖職者。
その全員が、響を見ている。
値踏みするような視線。
恐れるような視線。
信じたい者と、信じたくない者。
空気が重い。
響は居心地悪そうに視線を逸らした。
「……なんか胃痛くなってきた」
「我慢してください」
カノンは小声で返す。
その横顔も、普段より僅かに強張っていた。
宰相らしき老人が口を開く。
「では……改めて確認を」
低い声が議場へ響く。
「本当に、その少年の中に陛下の魂が?」
静寂。
全員がカノンを見る。
彼女は迷わず答えた。
「はい」
「根拠は」
「剣です」
ざわめき。
カノンは続ける。
「先王の剣技を継承しています。加えて記憶侵食、言語適応、王都内部での記憶同期反応……いずれも一致」
貴族たちの空気がざらつく。
信じたい者。
認めたくない者。
その時、響の頭へ、またノイズが走った。
視界が揺れる。
知らない記憶。
この議場。
この空気。
この位置関係。
全部知っている。
どこに誰が座るか。
誰が何を考えているか。
身体が、勝手に理解してしまう。
息苦しい。
響は無意識に歩き出していた。
カツ。
カツ。
靴音だけが、静かな議場へ響く。
誰も止めない。
止められない。
響自身、どこへ向かっているのか分かっていなかった。
なのに、身体だけが迷わない。
階段を上がる。
白銀の玉座へ近づく。
その瞬間。
広間の空気が凍った。
カノンの瞳が揺れる。
「……響?」
だが響は止まらない。
そして。
何の躊躇もなく、玉座へ腰掛けた。
静寂。
誰も息をしていなかった。
あまりにも自然だった。
まるで。
そこへ座ることを、身体が覚えているみたいに。
響自身が一番混乱していた。
「……え?」
自分でも、なんで座ったのか分からない。
ただ。
“そこに座るべき”。
そう思った。
その時だった。
一人の老騎士が、震える声で呟く。
「……陛下」
ざわめきが走る。
別の貴族が立ち上がる。
「馬鹿な……!」
「ありえん……!」
だが。
何人かは青ざめたまま動けなかった。
見てしまったからだ。
座り方。
視線。
指先の位置。
玉座へ肘を置く癖。
全部、死んだ王そのものだった。
響は呼吸が浅くなる。
頭の奥で、誰かの記憶が蠢く。
玉座。戦争。命令。孤独。
知らない感情が、自分の胸へ流れ込んでくる。
気持ち悪い。
怖い。
自分が、自分じゃなくなっていく。
視界が滲む。
議場の光景が遠のき、代わりに別の景色が重なり始める。
雪。血。燃える旗。臣下たちの視線。
『陛下』
『陛下』
『陛下』
違う、俺じゃない。
なのに。
胸の奥の“何か”が、その呼び方へ安堵してしまう。
響の指先が、無意識に玉座の肘掛けを撫でる。
酷く馴染む。
まるで何年も、ここへ座っていたみたいに。
その瞬間。
誰かが駆ける音がした。
「響!」
カノンだった。
山吹色の髪を揺らしながら、彼女は階段を駆け上がる。
そして勢いよく、響の肩を掴んだ。
「しっかりしてください!」
揺さぶられる。
その声だけが、妙にはっきり聞こえた。
響の視界が揺れる。
カノンの顔が近い。
強張った表情。
怯え。
焦り。
そして、泣きそうな目。
その顔を見た瞬間、頭の中の景色が一気に砕け散る。
雪も。戦場も。王座も。
全部、遠ざかっていく。
響は荒く息を吐いた。
「……っ、は……」
冷や汗が頬を伝う。
気づけば、自分の爪が肘掛けへ食い込んでいた。
議場は静まり返っている。
誰も動けない。
カノンだけが、響の肩を掴んだまま離さない。
その手が、微かに震えていた。
響はようやく、自分が玉座へ座っていることに気づく。
「……俺」
声が掠れる。
「なんで、ここ……」
答えられる者はいなかった。
ただ、広間にいた全員が理解していた。
今この瞬間。
“先王”は確かに、ここへいたのだと。
だが。
この場で一番苦しんでいたのは、間違いなくカノンだった。
響を玉座から降ろした後も、彼女の鼓動は収まらない。
肩へ触れた感触が、まだ手の中に残っている。
違う。
違うはずなのに。
似ている。
あまりにも。
仕草も。
視線も。
声も。
さっき玉座へ座った時の、あの僅かな顎の角度まで。
全部。
彼女が慕っていた王そのものだった。
脳裏へ、昔の光景が蘇る。
雪の戦場。血に濡れた軍旗。
敵陣の中央で、大剣を肩へ担ぎながら笑う王。
『カノン』
低く響く声。
疲れているのに、どこか安心する声。
あの声に呼ばれるたび、自分は必要とされている気がした。
“片翼の欠陥品”だった自分を、初めて人として見てくれた。
だから、命を懸けてでも守ろうと思った。
なのに。
地下室。
ガラスケース。
保存された――。
焼け落ちた寺院。
血塗れの両親。
全部、同じ男へ繋がっている。
愛された記憶と、壊された記憶が、
頭の中でぐちゃぐちゃに混ざっていく。
カノンは唇を噛む。
目の前にいるのは、十九歳の少年だ。
王じゃない。
響だ。
分かっている。
分かっているのに。
ふとした瞬間、“あの人”が重なる。
しかも最近は、日に日に似ていく。
声。目。怒り方。剣。
時々、本当に同じ人間に見える。
それが怖かった。
もしこのまま侵食が進めば。
響は消えるのではないか。
王だけが残るのではないか。
そんな想像が、頭から離れない。
その時、不意に響がこちらを見る。
「……カノン?」
困ったような、戸惑った顔。
ちゃんと響の表情だ。
そのことに、逆に胸が痛む。
カノンは一瞬だけ目を伏せ、静かに答える。
「……なんでもありません」
嘘だった。
何もかもが、限界に近づいていた




