第7話 - 「崩れる山」③
村を出てからの道は、想像以上に荒れていた。
土砂崩れの影響は、村だけに留まっていなかった。
山道のあちこちに亀裂が走り、昨日まで道だったであろう場所が谷底へ落ちている。
木々は根元から傾き、濁った水が細い川みたいに道を横切っていた。
カノンは何度か、響の前へ出て危険な足場を確かめた。
大剣を杖代わりに地面へ突き立て、崩れそうな場所を避けて進む。
だが、そのたびにユラが小さく首を振った。
「そっち、駄目」
カノンの眉がわずかに動く。
「まだ踏んでいない」
「踏まなくても分かる」
ユラはしゃがみ込み、泥の上へ指先を触れた。
白い指が、濡れた土をなぞる。
その長い兎耳が、ぴくりと動く。
響には何も聞こえない。
ただ風が吹いているだけだ。
けれどユラは、目を閉じたまま言った。
「下が空洞になってる。昨日の雨で根が流された。人が乗ったら落ちる」
カノンは無言で大剣を地面へ刺す。
刃が深く沈んだ瞬間、足元の土がぐずりと崩れた。
響は思わず息を呑む。
もしそのまま進んでいたら、足場ごと谷へ落ちていた。
ユラは立ち上がる。
「ね」
少しだけ得意げな声だった。
カノンは短く息を吐く。
「……助かった」
その言葉に、ユラの耳がほんの少しだけ揺れた。
だが彼女は顔を逸らす。
「別に。落ちたら面倒なだけ」
響は思わず笑いそうになった。
この二人、似てる。
言い方は違うのに、素直じゃないところが妙に似ている。
やがて日が傾き始める頃、三人は古い街道へ出た。
遠くに王都へ続く白い道が見える。
だがその手前、朽ちた祠の前でユラが足を止めた。
「待って」
彼女の耳が立つ。
カノンもすぐに大剣へ手をかけた。
響は周囲を見回す。
何もいない。
けれど、空気が妙に重い。
ユラは祠の前へ膝をつき、割れた石に手を添えた。
そこには、古い血のような黒い染みが残っている。
ユラは低く呟く。
「境界が裂けてる」
「境界?」
響が聞き返す。
ユラは頷く。
「こっちの世界と、あっちの世界の継ぎ目。ここから漏れてる」
その言葉の直後。
祠の影が、ぐにゃりと歪んだ。
そこから、聞こえるはずのない音が流れ出す。
駅のアナウンス。
車のクラクション。
誰かの笑い声。
現代日本の雑踏。
響の背筋が冷える。
懐かしいはずの音なのに、ここで聞くと気持ち悪い。
ユラは腰から札を取り出す。
白い指先が、祠の割れ目へ札を押し当てた。
「動かないで」
短く言い、鈴杖を鳴らす。
しゃん。
鈴の音が、夕暮れの街道へ薄く広がる。
貼られた札に、灰色の文字が浮かび上がった。
祠の影が震える。
黒く開いていた裂け目が、少しずつ縫い合わされていく。
響は思わず息を止めた。
すごい。
剣でも力でもない。
世界そのものの傷を、糸で縫うみたいな術だった。
だが、次の瞬間。
裂け目の奥で、赤い光が灯った。
ユラの耳がぴくりと動く。
「……まずい」
言い終わるより早く、祠の影が内側から破裂した。
黒い腕が飛び出す。
爪。刃みたいに長い指。
裂け目の中から、獣とも人ともつかない魔物が這い出してくる。
全身が黒い泥に覆われ、背中には無数の細い骨が突き出していた。
顔はない。
ただ、割れた口だけがある。
その口の奥で、駅のアナウンスみたいな声が鳴った。
『――まもなく、崩壊します』
響の喉が凍る。
魔物は封印中のユラへ向かって跳んだ。
ユラは札を祠から離せない。
術を途中で切れば、裂け目が広がる。
一瞬だけ、彼女の判断が遅れた。
黒い爪が、ユラの喉元へ迫る。
「ユラ!」
響が叫ぶ。
その声より速く、白い軍服の影が走った。
地面が跳ねるほどの衝撃が走った。
カノンの大剣が、魔物の爪を横から叩き斬る。
黒い粒子が飛び散った。
魔物が反り返る。
カノンはそのままユラの前へ踏み込む。
「封印を続けろ」
低い声。
命令ではない。
ただ、背中を預ける声だった。
ユラは一瞬だけ目を見開く。
だがすぐに表情を戻し、札へ意識を集中させる。
「……言われなくても」
鈴杖が再び鳴る。
しゃん。
裂け目の周囲に、灰色の文様が広がる。
魔物は身を震わせ、今度はカノンへ襲いかかった。
速い。
泥の身体が崩れながら伸びる。
腕が三本に分かれ、別々の角度からカノンを狙った。
カノンは一歩も下がらない。
大剣を身体ごと回し、最初の腕を叩き落とす。
二本目は刃の腹で受ける。
三本目が脇腹を狙う。
避けきれない。
その時、ユラの札が飛んだ。
札は空中で細い光の糸へ変わり、三本目の腕へ絡みつく。
魔物の動きが一瞬止まる。
「今」
ユラが言う。
カノンは返事をしない。
踏み込む。
白い軍服が翻り、山吹色の髪が夕暮れの中で燃える。
大剣が振り下ろされた。
地面が跳ねるほどの衝撃が走った。
魔物の腕が、まとめて地面へ叩き落とされる。
だが魔物は倒れない。
顔のない頭部が割れ、そこから別の口が現れた。
耳障りな電子音。
コンビニの入店音。
赤ん坊の泣き声。
誰かの笑い声。
全てが混ざった音が、魔物の口から溢れる。
響は頭を押さえた。
吐き気がする。
現代日本の音が、魔物の体内でぐちゃぐちゃに腐っていた。
魔物がカノンを無視し、響へ向きを変える。
『――みつけた』
響の身体が固まる。
それは最初、日本で襲われた時に聞いた声に似ていた。
王の魂を狙う声。
逃げろ、と頭では思った。
だが足が動かない。
いや、違う。
動かないのではなく、前へ出ようとしていた。
喉の奥で、知らない呼吸が整う。
敵を前に退くな。
逃げるな。
斬れ。
そんな声が、身体の内側から響いてくる。
響は震える拳を握り締めた。
「……っ、違う」
これは自分じゃない。
そう言い聞かせるより早く、ユラの鈴杖が強く鳴った。
しゃん。
今度の音は鋭かった。
魔物の足元に、灰色の陣が浮かぶ。
「踏ませた」
ユラが小さく言う。
魔法陣から伸びた光の糸が、魔物の足首へ絡みついた。
魔物が暴れる。
黒い泥の身体を膨らませ、術の糸を引き千切ろうとする。
ユラの額に汗が滲んだ。
「長くは保たない」
その声に、カノンが低く構える。
「十分だ」
彼女は大剣を両手で握り直す。
刃が、夕暮れの光を鈍く反射した。
一歩、二歩。
踏み込む。
片翼が大きく揺れた。
飛べない翼。
けれどその瞬間だけ、彼女の身体は地を離れたように見えた。
ユラの術が魔物の動きを縫い止める。
そのわずかな停止へ、カノンの剣が叩き込まれる。
横薙ぎの一閃。
魔物の胴が、真っ二つに裂けた。
黒い粒子が夕暮れに散る。
だが核だけが残る。
赤い光。
それが裂け目へ逃げ込もうとする。
ユラが札を投げる。
札が核へ貼りつき、光を縫い止めた。
「逃がさない」
カノンが最後の一撃を振り下ろす。
赤い核が砕けた。
魔物は声もなく崩れ、泥のように地面へ広がる。
同時に、祠の裂け目が細く閉じていった。
最後に残った黒い筋へ、ユラが札を押し当てる。
鈴の音。
しゃん。
今度こそ、音は澄んでいた。
境界の裂け目が消える。
街道に、夕方の静けさが戻った。
しばらく誰も喋らなかった。
カノンは大剣を肩に担ぎ、まだ警戒を解いていない。
ユラは祠の前に膝をついたまま、少しだけ肩で息をしていた。
やがてカノンが言う。
「油断したな」
ユラは顔を上げる。
「助けたくせに、最初の一言それ?」
「事実だ」
「……ほんと、変わってない」
ユラは小さく呟いた。
でもその声音は、最初に出会った時に比べて少しだけ柔らかかった。
カノンは何も答えない。
ただ、大剣を背中へ戻す前に、ほんの一瞬だけユラを見る。
「術は見事だった」
ユラの耳が、ぴくりと揺れた。
彼女はすぐに顔を逸らす。
「……剣だけは相変わらず馬鹿みたいに強いね」
「褒めているのか」
「半分くらい」
響は二人を見て、少しだけ息を吐いた。
まだ仲間とは呼べない。
でも、最初よりは少しだけ、同じ方向を向いている気がした。
ユラは立ち上がり、祠に残った札を指で押さえた。
黒い筋は消えた。
だが完全に元通りになったわけではない。
石の表面には、細い傷跡が残っている。
「……広がってる」
カノンが問う。
「どれほど危険だ」
「今すぐここが崩れるほどじゃない。でも、この速度なら王都周辺はもっと酷い」
ユラは振り返る。
白い仮面の奥の目が、響を見た。
いや、響の中にいるものを見ていた。
「王の魂が、門を引っ張ってる」
響は言葉に詰まる。
責められたわけじゃない。
でもそう聞こえた。
ユラはすぐに視線を外す。
「だから、急いだ方がいい」
それだけ言って、彼女は歩き出した。
響はその背中を見る。
小柄で華奢な背中。
でも彼女は、村で子供を助け、道を選び、裂け目を封じ、魔物を縛った。
剣を振るわなくても、戦える人間がいる。
響は初めて、ユラがただの追跡者でも、真実を知る案内人でもないのだと理解した。
彼女もまた、壊れかけた世界を支えている側の人間だった。




