第7話 - 「崩れる山」①
王都へ近づくにつれ、世界の歪みは激しくなっていく。
空にノイズのような裂け目が走る。
異世界の空なのに、一瞬だけ日本の電車広告が映る。
夜道で、コンビニの入店音が鳴る。
草原の向こうに、見たことのある横断歩道が蜃気楼みたいに浮かび、次の瞬間には消える。
響の身体は、二つの世界の境界に近づいていた。
頭の奥では、時折知らない声がする。
低く、疲れた男の声。
命令しろ。従わせろ。迷うな。
それが自分の考えなのか、王の記憶なのか、もう響には判別がつかなくなっていた。
カノンは何も言わない。
けれど彼女もまた、響の変化に気づいている。
時折、彼を見る目が揺れる。
響を見る目なのか。
先王を見る目なのか。
響には、それが少しだけ怖かった。
そんな中。
山道の先で、地鳴りが起きた。
最初は遠い雷のようだった。
だが次の瞬間、地面が大きく揺れる。
鳥が一斉に飛び立つ。
山肌から、低く唸るような音が響いてきた。
カノンが顔を上げる。
「伏せてください!」
言葉の直後。
山の斜面が崩れた。
土砂が、木々を飲み込みながら流れ落ちてくる。
岩。泥。折れた幹。
茶色い濁流が、轟音と共に谷へ雪崩れ込んだ。
響は息を呑む。
その先に、小さな集落があった。
灰耳族の村だった。
白い布屋根の家々。細い橋。石積みの祠。
その裏手の山が、丸ごと崩れている。
悲鳴が聞こえた。
響は考えるより先に走り出していた。
カノンもすぐに続く。
泥の中で、誰かが叫んでいる。
「子供が!」
見ると、濁流の端に小さな影があった。
長い耳をした子供が、折れた木にしがみついている。
泥水に足を取られ、今にも流されそうだった。
そこへ、白い影が飛び込む。
ユラだった。
彼女は鈴杖を捨て、泥の中へ膝まで浸かりながら子供へ手を伸ばしている。
鈴杖は術を通すための祭具で、人一人を引き上げられるような強度はない。
だからユラは、迷わず自分の手を伸ばしていた。
だが届かない。
足場が崩れる。
ユラの身体も、土砂に引きずられかけた。
カノンが大剣を地面へ突き立てる。
「掴まれ!」
大剣を支柱にし、片手でユラの腕を掴む。
響は近くに落ちていた縄を拾い、腰へ巻いた。
「俺が行く!」
「危険です!」
カノンが叫ぶ。
だが響は止まらない。
泥の中へ踏み込む。
冷たい。重い。足が抜けない。
それでも、響は子供へ向かって腕を伸ばした。
日本で見た光景が脳裏をよぎる。
小学生の頃、地元で大きな地震があった。
揺れる体育館。避難所の床。濡れた毛布。名簿を作る大人たち。水を運ぶ自分の手。
あの時も、何をすればいいか分からなかった。
でも。
誰かが動かなきゃ、何も変わらなかった。
「手、伸ばせ!」
響が叫ぶ。
子供が泣きながら手を伸ばす。
指先が触れる。
掴んだ。
次の瞬間、さらに土砂が流れ込む。
響の身体が持っていかれかける。
カノンが縄を引く。
ユラも泥だらけのまま、響の腕を掴む。
三人がかりで、子供を引きずり上げた。
子供は泣きながらユラに抱きつく。
ユラは一瞬だけ、何かを言おうとして。
結局、何も言わずにその背を抱いた。
災害はそれだけで終わらなかった。
村の裏手は大きく抉れ、家屋の一部が土砂に飲まれていた。
負傷者がいる。
家族を探す者がいる。
泣き叫ぶ子供。
呆然と立ち尽くす老人。
灰耳族たちは人間よりずっと静かな種族だった。
それでも、この時ばかりは混乱していた。
ユラが指示を飛ばす。
だが指揮監督するには人数が足りない。
カノンは瓦礫を持ち上げ、下敷きになった者を助け出す。
大剣を梃子にして崩れた梁を退かし、負傷者を安全な場所へ運ぶ。
響は周囲を見回した。
頭の中が、妙に冷えていた。
「まず怪我人を一か所に集める! 動ける人と動けない人を分けて!」
自分でも驚くほど声が出た。
灰耳族たちが響を見る。
敵意と困惑が混じった視線。
だが響は構わず続ける。
「水場は無事か? 飲み水と泥水は分けろ。怪我人に泥水飲ませるな」
「毛布か布、乾いてるやつ集めて」
「子供と老人は先に屋根のある場所へ!」
ユラが目を細める。
「……慣れてるの?」
響は泥だらけの手で額を拭う。
「俺のいた日本でも、でかい地震があった」
「避難所の手伝いしたことがある。完璧じゃないけど、何もしないよりマシ」
ユラは少しだけ黙る。
そして灰耳族たちへ向き直った。
「聞いて。今はこの人間の指示に従って」
その一言で、空気が変わった。
響は村の広場を避難場所に決めた。
倒れていない柱を使い、布を張って仮設の屋根を作る。
石を並べて火の場所を決める。
怪我人を寝かせる場所と、子供たちを集める場所を分ける。
食料を数える。
水を分ける。
泣いている子には、できるだけ仕事を与えた。
布を運ばせる。
小さな器を並べさせる。
何もしない時間が、一番怖いと知っていたから。
本当なら、王都へ急ぐべきだった。
響にも、それは分かっていた。
けれど、ここを見捨てて進んだら、自分の中の何かが完全に壊れる気がした。
王の声ではなく。
斎木響として、そう思った。




