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【9】世界を超えた学園生活〈1〉

 授業の終わりを告げる鐘の音が、時計塔から響き渡る。

 エナは聖女棟から特別棟まで、軽快な足音を響かせながら廊下を駆け抜け、勢いよく扉を開けた。


「ル・シ・アン・様〜っ!」


 エナは両手を広げて、今にも飛びつかんばかりの勢いで室内へ躍り込んだ。その顔には、一秒でも早く最推しを拝みたいという欲望が隠しきれず、満面の笑みが花が開くように弾けていた。


「昨日は来れなくてごめんね。寂しくなかった?」


「……扉は、静かに開けろ、と毎度言っているだろう」


 机に向かったままのルシアンから、怒気のこもった視線が飛んでくる。だが、エナはそんな冷たい睨みさえさらりと受け流し、あっけらかんと笑った。


「あはは。ごめんごめん!」


 ここヴェルン王立魔法学園において、特別優秀な生徒は『研究生』として個人の研究室を与えられ、座学の免除すら許されている。


 聖女科の授業も決して無益ではない。だが、聖女としての社交の作法といった類は、エナにとっては苦行でしかなかった。もし自分も魔法科の生徒で、ルシアンのような才能と明晰な頭脳併せ持っていたなら。正々堂々とこの研究室に居座り、特等席で一日中彼を眺めていられるのに。そんな純粋な羨望半分、よこしまな煩悩半分の溜息を漏らしながら、彼の背中に熱い視線を送った。


「お土産買ってきたから、許して?」


 エナが弾むような足取りで歩み寄ると、ルシアンの手元がわずかに強張った。彼は広げていた重厚な魔導書の中に、何か白い端切れを押し込むようにして、バタンと大きな音を立てて閉じた。


(ん? なんだ……?)


 一瞬だけ見えた、白い端切れ。

 普段、感情を乱すことのないルシアンにしては、あからさまに余裕のない動きだった。好奇心で首を傾げそうになったが、ルシアンの眉間に刻まれた険しい皺を見て、エナはぐっと言葉を飲み込む。


(……これ以上は、野暮だよね)


 追求したい気持ちをぎゅっと喉の奥に押し込めると、何事もなかったかのように明るい声で、紙袋から小さな缶を取り出した。


「じゃじゃーん! これがお土産でぇす」


 パチンと軽い音を立てて蓋を開ける。その瞬間、沈んでいた研究室の空気を塗り替えるように、独特の甘く爽やかな香りがふわりと広がった。

 ルシアンは先ほどまでの硬い気配を霧散させ、導かれるようにその香りを辿る。


「随分香りが強いが……新しい紅茶か?」


「ううん、これはハーブティーだよ。カモミールっていうの。街で今、すごく人気なんだって!」


 ルシアンは興味深そうに目を細めて缶のラベルを凝視すると!鷹揚に立ち上がった。備品棚から薄く繊細な磁器のティーセットを取り出し、机の上へ丁寧に並べていく。その丁重な指先の動きに、エナは思わず見惚れてしまった。


「……あ、私も手伝うよ!」


 身を乗り出したエナの手を、ルシアンはそっと遮る。


「君がくれた茶葉だ。僕が淹れる」


 差し出された手に「ありがとう」と缶を託し、エナは彼の隣に腰を下ろした。魔法で生み出された小さな火が鍋の水を揺らすのを眺めながら、その綺麗な横顔をじっと見上げる。


(下から見ても、ほんっっっ……とに、美形だなぁ)


 整った顔立ちなのは周知の事実だが、あおりのアングルですら目を見張るほど美しいのは、真に美形の証である。


(なんでヒロインのクローディアは、この美貌と、誰よりも綺麗な心を持つルシアンを選ばなかったのかな。私なら秒で婚姻届持ってくるのに……!)


 頭の中でむぎぎ、とハンカチを噛み締めていたエナだったが、ふと思い立って立ち上がった。髪をふわりと翻しながら、背の高いルシアンの顔の高さまで、誇らしげに缶を掲げて見せる。


「見て見て。これ、お花のお茶なの。可愛いでしょ?」

「……ああ、そうだな」


 茶葉を覗き込んだルシアンが、ふっと口角を上げた。

 一瞬の、けれど確かな微笑み。その破壊力に、エナの胸はずきゅんと盛大に音を立てて跳ねた。


(やばい、今の笑顔……スマホがあれば連写してたのにぃぃ!)


 カメラも写真もないこの世界を呪いながら、エナの顔はニヤけを必死に耐えるような、なんとも形容しがたい奇妙な形に歪んでいた。


 この学園は、交易都市リーヴェルの外れに位置している。リーヴェルは、他国から王国への物資が集まる交易の要所の一つだ。日々、港には色とりどりの帆を立てた貿易船がひしめき合い、街には世界中の色々な品々が集まるため、買い物には事欠かない。


「あとね、可愛い上着も買ったんだよ。冬は大雪が降るって、友だちが教えてくれて!」

「……ああ。港からの海風が雪を運んでくるんだ。リーヴェルの冬は君が思うよりずっと冷える。防寒具を揃えていておくのは懸命だろう」

「えへへ。北の地の伝統的な服でね、一目惚れしちゃったんだ!」


 瞳をきらきらさせて上着の解説をするエナの前に、湯気の立つティーカップが置かれた。


「熱いから、気をつけて」

「ルシアンが淹れてくれたお茶、大切に飲ませていただきます」


 ははーっ、と大仰に受け取り、口をつける。

 ルシアンはエナが火傷をしないか、ちらちらと視線を送りながら見守っていた。


(ルシアンは絶対に認めてくれないけど、本当に優しいんだよね)


 カモミールの優しい香りが鼻腔を抜けていく。


 美味しい。本当に買ってよかった。カモミールティーは不眠に良いと聞く。これで少しでも、彼の不眠が解消されたなら──。


 ルシアンもまた、一口お茶を口に含んだ。


「ん……」


 ルシアンはわずかに目を見開き、しげしげとカップの中を覗き込んだ。どうやらお気に召したようだ。


「……昨日のリーヴェルは、冷えたんじゃないか?」


 エナの熱烈な視線に気づいたのか、ルシアンは照れ隠しのように咳払いをして問いかけた。


「ううん、ちっとも。制服だったから、全然平気だったよ」


 女子の制服は、清楚な白いワンピースに赤いリボンの組み合わせ。その上から、男女共通の黒いローブを羽織る。


「このローブ、すごく暖かいんだもん」


 エナはその場でくるりと回ってみせた。裾に金糸で華やかな装飾が施された上質な黒布が、ふわりと円を描いて広がり、ゆっくりと重厚なシルエットへと戻っていく。


 魔法学園の生徒であることを実感させてくれるこのローブは、エナの一番のお気に入りだった。


(二度目の高校生活っていう、ちょっぴりの罪悪感と背徳感があるけれど)


 二杯目を注ぐルシアンの姿を眺め、エナは心の中で小さくガッツポーズをする。


(この光景を特等席で見られるなら、吹けば飛ぶような恥だわ!)


 男子の制服は、混じり気のない白のワイシャツに黒のスラックス。そして、共通の赤いネクタイいう至ってシンプルなものだ。けれど、その普通が、高身長で手足の長いルシアンには恐ろしいほど似合っていた。着崩すことのない完璧な着こなしが、彼の端正な顔立ちと、孤高な佇まいをいっそう際立たせている。


 エナは耐えきれず、震える手で顔を覆って悶絶した。


「ああああ……制服姿のルシアン様、何度見ても超絶かっこいいよぉ。無理……好きが溢れるうぅぅ!」


「…………」


 エナのいつものハイテンションぶりに、ルシアンは聞こえないふりをして、残りの茶をくびっと飲み干した。


 その隙を逃さず、馳せ参じる子犬のような勢いでティーポットを掴んだエナが、ふんすふんすと笑顔でルシアンを見上げる。


「おかわり、淹れましょうか!」


 ルシアンは「あー……うー……」と、どこか決まりが悪そうに視線を泳がせていたが、やがて小さく吐息を漏らした。


「…………貰おう」

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