【10】世界を超えた学園生活〈2〉
「あー……面倒だ」
ルシアンは仰向けに倒れ込むと、前髪をぐしゃりとかき上げた。脱力した手は、重力に逆らわずにベッドのシーツをぼすんと叩く。
ルシアンを悩ませる元凶は、すぐそばにあった。
枕元に放り出したままの手紙を、指先で引き寄せる。封筒の裏側には、アッシュフォード侯爵家の紋章が刻まれた深紅の封蝋が、重々しく鎮座していた。
『次週、王都のタウンハウスに滞在する。土曜の昼には戻っておくように』
簡潔で絶対的な、父からの命令だった。この時期に領地ではなく王都へ呼ばれる意味を考えれば、必然的に行き着く先は一つ。
(おそらく、散々せっつかれた婚約者関連だろうな)
クローディアがレオンハルトと結婚した今、次期侯爵として選ぶべきは家格と利の二点のみ。相手が誰であっても、自分の生活が大きく変わるわけではない。ベルクレア家に害をなさない令嬢なら、誰でもいいと思っていた。
(そのはずなのに……)
指先に触れる便箋の上等な質感が、今の自分にはひどく不快に感じられる。
卒業すれば、父の元で政を学び、次期侯爵としての責務に忙殺される日々が始まる。嫡男として生まれたルシアンの、侯爵家を継ぐという義務と責任。それが自分の人生の全てであり、唯一の居場所だ。
いずれは然るべき家柄の令嬢を妻に迎え、後継を残す。それは、分かっている。痛いほど、理解している。だが、理解していることと、割り切れることは別だ。
自由に過ごせるのは、この半年で最後なのだ。
不意に、曇りのない熱を帯びて自分を見つめていたあの赤色が、残像のように目の奥で鮮やかに弾ける。
ぱらぱらと、窓を叩く規則的な雨音が聞こえてきた。
視線を向ければ、十字格子の窓ガラスには歪な雨粒がいくつも張り付き、自重に耐えかねた雫が不規則な線を描きながら滑り落ちていく。
(いつから降っていたんだろう)
そんなことをぼんやり考えながら、ネクタイをするりと引き抜き、襟を緩める。
手紙を読んでからというもの、胸が疼くように息苦しい。首元を緩めてみたところで、窓の隙間から滑り込んできた湿った外気が、じっとりと首筋にまとわりつくだけだった。
「……雨が降っているせいか」
喉の奥が詰まるような感覚を、深い吐息とともに無理やり押し込み、ルシアンは意識を逸らすように瞼を閉じた。
ふと、研究室に置かれたままのカモミールの茶葉の香りが、記憶の隅をふわりと掠める。
その他にも、彼女が勝手に置いていく菓子や、いつの間にか飾られていたラベンダーのドライフラワーなど。気がつけば、殺風景だったあの部屋は彼女が持ち込んだもので溢れていた。
(……思えば、彼女には受け取ってばかりだ)
ルシアンはわずかに眉を寄せ、自身の掌を見つめた。
ただ無償で享受し続けるのは、紳士の、そして次期侯爵としての矜持が許さない。
相応の返礼を用意すべきだろう。……だが、一緒にいることが多くなったのに、彼女が何を喜び、何を望むのか、ルシアンにはまるで見当もつかなかった。
──コンコッココンコン
リズムを刻むノックの音が、停滞していたルシアンの思考を遮った。
「ルシアン、食堂行こうぜ〜」
扉の向こうから、隣室の友人であるカリムが、いつもの飄々とした声を飛ばしてくる。廊下からは、食堂へ向かう生徒たちの賑やかな足音と笑い声が漏れ聞こえてきた。
(もう、そんな時間か……)
手にしていた手紙を、ゴミでも捨てるような無造作な手つきで机の上へ放り投げる。既にルシアンの頭から手紙のことなど消え失せ、代わりに別の思考がその余白を埋めていた。
ルシアンはベッドから身を起こすと、壁に掛かっていたローブを手に取った。先ほどまで鉛のように重かったはずの腕は、今は不思議なほど滑らかに動く。
(さて、あの子は何を好むだろうか)
街で見かけた珍しい色の花か、あるいは趣向を凝らした茶葉か。
(……今度、さりげなく好みを訊いてみるか)
自身の唇がわずかに形を変えていたことに気づかないまま、扉へと足を向けた。
「……ああ、今行く」
応じる声は、いつになく軽やかに響いた。




