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【8】翡翠の面影を追いかけて

 静まり返った夜だった。


 ルシアンはエメラルドグリーンのガラスペンを、光に透かしてぼんやりと眺めた。軸に彫られた繊細な螺旋模様を指先で滑らせるようになぞると、重い溜息とともにペンをレストへと横たえる。


(……集中できない)


 使い込まれた自室の机には魔導書が積み上がり、懐中時計の秒針だけが規則正しく時を刻んでいた。


 漏れ出した溜息を追うように立ち上がる。


 窓を乱暴に開け放つと、夜闇の中に時計塔がそびえていた。

 冷えた夜風を招き入れ、傍らにあったホワイトムスクの香水を、ひと振り、空に吹きかける。

 この洗練された清潔な香りはルシアンのお気に入りで、いつもならこれだけで淀んだ思考を切り替えられるはずだった。


 だが、今日はその効果すら薄い。


 理由は、わかっている。

 あの夜以来、エナという名の女子生徒が、毎日のようにルシアンの研究室を訪ねてくるのだ。



『──あ、ルシアン様! 紅茶淹れましたよ』

『──ねえねえねえ、何読んでるんですか?』

『──じゃーん! 寮の厨房を借りてクッキー焼いてきたの。ルシアン様もどうぞ』

『──ラベンダーをドライフラワーにしたの。いい匂いでしょう? どこに飾ります?』

『──今日もかっこいいですね。目が潰れました。好きです!』



 瞳をきらきらと輝かせ、遠慮なく距離を詰めてくるあの姿が、嫌でも脳裏に焼きついている。


 会うたびに「好きだ」と無邪気に繰り返すあの言葉も、どうせ何かの見返りを求めた演技に過ぎない。自分のような人間を、無条件で愛する者などいるはずがないのだから。そうやって利害のために喉を鳴らす相手なら、これまでいくらでも見てきた。


 日に日に遠慮のなくなる会話に最初は戸惑い、次は呆れ、そして今は……。


 気づけば彼女の残像を追おうとしている自分に気づき、ルシアンは低く息を吐き、眉間を指先で押さえた。


「……疲れてるせいだな」


 自身言い聞かせるように呟く。

 彼女には恩がある。あの日、倒れた自分を介抱してくれたのは彼女だ。どうしたのかは分からないが、目が覚めた時には自室のベッドの上で、数ヶ月ぶりに深く眠った後のような清爽感があった。


 紳士たるもの、恩人たる女性に不躾な態度は取れない。

 それに、一度研究室への出入りを許してしまった以上、今さら追い出すのも余計な労力を使うだけだ。……もっとも、これまでの人生でルシアンに物怖じせず、こうも易々と懐へ踏み込んできた女性など、クローディア以外にいなかったが。


『ルシー!』


 耳奥で響くのは、かつて親愛を込めてルシアンを呼んだ愛らしい声。


 ルシアンは、吐き出すことのできない鬱屈を逃がすように、深く、長い溜息をついた。


(今日も眠れないだろうな)


 ランタンを持ち、重い足取りで寝台へ腰を下ろす。灯りを頼りに、現実を撥ねつけるようにして重厚な魔導書を開いた。

 いつもなら一瞬で知識の海に没頭できるはずなのに、今日は活字が上滑りして頭に入ってこない。


『……あなたに、一目惚れしました!』


 突然、耳の奥であの声が蘇った。

 あんな見え透いた嘘、信じるはずがない。自分のような、いつ暴発するか分からない魔力をはらんだ人間を、本気で愛する者などいるはずがないのだ。


「バカバカしい」


 時計に目をやると、針は既に日を跨いでいた。

 再び魔導書に視線を落とすが、ふと、夕方に彼女が去り際に残した言葉が蘇る。


『……また、体壊してほしくないんだけどなぁ』


 眉を下げて、心底心配そうに自分を見つめていたあの顔が、脳裏を離れない。思い返せば、あれほどまでに真っ向から言葉をぶつけられて、なぜ自分は彼女を即座に突き放さなかったのか。

 苛立ちを覚えて、ルシアン小さく舌打ちをした。


(体調管理を怠れば、また彼女の世話になる羽目になる。……それだけは避けなければ)


「……寝るか」


 独り言は、自分への言い訳だった。あの日以来、まともに眠れた試しなどない。だが、彼女にあのような顔を二度とさせたくないという思いは、紳士として当然だろう。


 ランタンを消し、静まり返った暗闇の中で目を閉じる。



『──好き!』



 すると、瞼の裏に焼き付いた彼女の残像が、熱を持って浮かび上がった。


「……っ」


 強く瞬きをして視界を振り払おうとしたが、今度は掌に熱い感触が蘇った。


 誰かに触れられることは、ルシアンにとって脅威でしかなかった。いつ自分の魔力が暴走し、相手を壊してしまうかわからない。だからこそ、薄氷の上を歩くように外界と距離を保ってきたのだ。


(なのに、どうしてこの指先は、今も焼けるように熱いのだろうか)


 ルシアンは、かつて彼女に握られた自分の手を掲げ、月光が差し込む部屋の中で静かに見つめた。銀色の光に晒された掌の端に、あの一瞬だけ映ったルビーのような鮮烈な紅が、網膜の裏にちらつく。


 冷え切っていた肌に、無理やり彼女の体温を流し込まれたような、消えない違和感。


(……なにかの魔法だろうか)


 いやに思い出す。魔法の類なら、解く方法もあるだろうに。


「……触れられたのは、いつ以来だっただろう」


 鈍い疼きを鎮めるように、意識の矛先を過去へと逸らす。ふいに、クローディアの残像が浮上した。


『ルシーったら、早く早く!』


 ルシアンの手を引いて笑う、エメラルドのような瞳。春の陽光をそのまま形にしたような、柔らかな笑顔。


『あっ、レオン!』


 ──その笑顔が、自分以外の男に向けられた瞬間の記憶。


 ルシアンの手を解き、レオンハルトの方へ駆けていく彼女の、ふわふわと靡く桃色の髪。伸ばした手は、いつも空を掴むだけで、届くことはなかった。


 見つめる先の視界は、いつの間にか見慣れたベッドの天蓋へと戻っている。


 ルシアンは自嘲気味に寝返りを打った。


 嫉妬に狂う自分は醜い。友人と、大切だった女性の門出を心から祝福できない自分はあまりに最低だ。

 そんな自己嫌悪が、彼女たちが去ったあの日から、猛毒のようにルシアンの心を侵食し続けていた。


 アッシュフォード侯爵家の後継者である以上、王族との関わりは断てない。

 これからも、レオンハルトの妻となったクローディアを、平然とした顔で見守り続けなければならないのだ。


 考えたくない。けれど、静寂は容赦なく思考を現実へと引き戻す。



『ルシー。あなたなら大丈夫ですよ。きっと、素敵な人に出会えます』



 クローディアが学園を去る時に言い残した、呪いのような祝福。


(僕に残されたのは、誰にも選ばれなかったという事実だけだ)


「君以上の人なんて、この世界のどこにもいないんだよ。……クローディア」


 誰にも届かない独白が、夜闇に溶ける。


 ホワイトムスクの香りが、虚しく部屋を漂っていた。


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