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【7】聖女の光〈2〉

 ──聖女とは、治癒魔法を行使できる特別な存在である。


 エナは熱いカップを持ちながら、沈み込むような座り心地のソファに身を預けていた。






 毛足の長い絨毯が床を覆い、壁際には重厚な金文字が踊る書棚が整然と並んでいる。柔らかな暖色の光に照らされた、学園長室の中は調度品の一つひとつに洗練されたセンスが光る、ひどく上品な空間だった。


 目の前では、一人の老婦人が綺麗に絵付けされたティーカップに、淀みない動作で琥珀色の紅茶を注いでいる。


「角砂糖はいかが? 疲れた時には甘いものが一番ですわ」


 上品に小首を傾げて微笑む彼女は、近くで見るといっそう圧倒的な空気を纏っていた。


 銀髪を隙なく結い上げ、深いワインレッドのドレスを纏うその姿は、ただそこに座っているだけで部屋の温度を一段上げるような、確かな威厳に満ちている。


 背後に控える学園長秘書のヴィクターが、音もなく角砂糖のトングを差し出した。


「……いえ、お構いなく」


 エナは丁重に断ると、ちらりと自分の手元に視線を落とした。


 つい先刻まで、あの研究室で倒れたルシアンを必死に抱えていたのが嘘のようだ。彼はヴィクターの背に担がれ、寮へと運ばれていった。その後、エナは学園長に連れられ、この部屋へと案内されたのだ。


 厚手のブランケットを肩まで引き上げ、未だに震える指先を隠すようにカップを包み込む。


 学園長は、一口も紅茶に手をつけていないエナを静かに見守っていた。その眼差しには深い慈愛が湛えられているが、同時に、全てを見透かすような教育者としての鋭い理知が光っている。


「あらあら。遠慮なさらないで、一口でもお飲みなさい。冷えたでしょう?」


 言葉こそ優しいが、そこには逆らうことを許さない不思議な重みがあった。


(確か、持ち手に指を通しちゃいけないんだったっけ……)


 そんな、今の状況には場違いなはずのマナーの知識がエナの脳裏を掠める。震える指でハンドルを慎重に摘まむように持ち上げ、熱い液体を喉に流し込んだ。

 アールグレイの香りが鼻腔を抜け、胃の腑がじんわりと温まる。


 学園長は、エナが飲み下すのを見届けてから、自身も優雅にカップをソーサーに戻した。カチッと触れ合う微かな音さえ、計算されたかのように洗練されている。


 彼女は慈しみを込め、射抜くような眼差しでエナの赤い瞳を覗き込んだ。


「エナさん、まずはあなたの質問から聞きましょう」


 エナは意を決して、ブランケットの中で丸まっていた背筋を伸ばした。


「……伺いたいことが山ほどあります」

「ええ、もちろん。なんでもお訊きなさい」


 続きを促すように、学園長は笑みを深める。エナは膝の上でスカートを握りしめ、胸の奥で渦巻いていた疑問を絞り出した。


「……そもそも、聖女って、何なんですか?」


 学園長はその問いを、迷い子を導く母のように深く頷いて受け止めた。


「聖女とは、治癒魔法を行使できる存在のこと。……そして、この国において唯一、欠損すら繋ぎ止める『奇跡』を安定して行使できる貴重な存在。それが聖女ですわ」


 軽やかな声色に反して、その言葉は鉛のような質量を持ってエナの全身を押し潰した。


(……奇跡。私が、そんなものを使えるって?)


 魔法が当たり前にあるこの世界でも、治癒魔法の在り方は異端なのだ。


「そのため、聖女科の生徒は通常の授業には参加しません。独自のカリキュラムと、専用の寮で生活していただきますの」


 寮もまた、特に厳重な結界に守られた聖女棟の中にあるのだという。


(……じゃあ、もう、ルシアンには会えないの?)


 彼の姿が思い浮かび、視線が床に落ちた。せっかく会えたのに。同じ学園の中にいながら、自分だけが隔離される事実に、胃の奥がヒリリと焼けるような感覚に陥った。


「他に、質問はありますか?」


「っ、あの!」


 エナはがばっと顔を上げた。


「元の世界へ帰る方法を、ご存知ありませんか?」


 学園長は目を伏せ、残酷なほど穏やかな動作でゆっくりと首を横に振った。


「残念ながら……我々はその術を存じ上げません。過去の記録にも、帰還を叶えたという記述は残っていないのです」


「そう……ですか」


 エナは唇を歪めて、俯いた。今までどこかで「これは夢だ」と逃げていた部分が、音を立てて崩れていく。視界がじわりと滲み、膝の上の拳が小刻みに震えた。


(本当に、帰れないことが確定してしまった……)


 胸のあたりが冷たくなるのを感じていると、学園長が引き出しから乳白色の雫型のネックレスを取り出した。


「これは、魔導具です。聖女科の生徒には魔力を安定させる媒体として、常時身につけていただきます。これはあなたが聖女である証明にもなりますから、くれぐれもなくさないように」


 首元にかけられたそれは、光を受けるたび内側で揺れるように色を変えた。ひんやりとした感触が肌に触れると、不思議と心臓のざわつきが凪いでいく。


「……あの、聖女科の生徒って、どれくらいいるんですか?」


「現在は、エナさんを含めて三名ですわね。過去には、エナさんのように異世界からいらっしゃった方の記録もありますよ」


「私以外にも、いたんですね……」


 あまりに慣れた学園側の対応の理由を知り、エナは目を丸くした。


「聖女科は履修範囲が狭いため修了も早いですし、私たちは聖女同士の交流を重視しています。過去の異世界の聖女様は……今はそう簡単に会える方ではありませんが、きっとそう遠くない未来にお会いできるでしょう」


 学園長はルビーのような赤い瞳をじっと見つめると、深い笑みを浮かべて言葉を切った。


「それって、どういう……」


 その真意を問おうとした瞬間、扉がノックされた。


「学園長、マリーナです」


 控えめなノックの音に続き、今まで壁のように存在感を消していたヴィクターが恭しく扉を開いた。

 そこに立っていたのは、見る者に安心感を与えるような、恰幅の良い穏やかな女性だった。


「紹介しますわね。こちらは聖女寮の寮母、マダム・マリーナです。彼女がエナさんを寮へ案内してくれますわ」


「さあさ、いらっしゃいな。お部屋の用意はできていますよ。疲れきっているでしょう」


 マリーナに促され立ち上がりかけるが、エナにはどうしても確かめなければならないことがあった。


「あの、最後に一つだけ。……どうしても伺いたいことがあります」


 エナが真っ直ぐ射抜くような視線を向けると、学園長は心得たように顎を引いた。彼女の目配せを受け、ヴィクターとマリーナが静かに退室していく。


 しんと静まり返った部屋に、二人きりの沈黙が落ちた。


「それで、聞きたいこととは何かしら?」


 学園長が続きを促すと、エナは意を決してその名を口にした。


「……クローディア様とレオンハルト殿下は、この学園に在籍していますか?」


 学園長の眉が、ぴくりと動いた。


「……なぜ、そのお名前を?」


 エナは答えられず、唇を噛んで目を伏せた。漫画で知ったなんて、口が裂けても言えるはずがない。

 学園長はこれ以上追及せず、ただ淡々と事実だけを告げた。


「そのお二人なら、もう在籍しておりませんわ。つい先日、国を挙げた盛大な結婚式が執り行われたばかりですから」


 エナの思考が、真っ白にフリーズした。


(つい先日……結婚式。じゃあ、さっきのルシアンの、あのやつれた姿は……)


 ──『っ、ぁぁ……クロー、ディア』


 ──『……行って、しまったと……思ったのに』


(嘘でしょ……)


 バラバラだった点と点が、最悪な形で繋がっていく。


 今の時間軸は、ヒロインが王子と結ばれた直後。つまり今の時系列は、物語の“エンディング後”なのだ。


 最推しのルシアンの最愛の人が結婚し、祝福の鐘の音に耳を塞いで、孤独のどん底に突き落とされた後の世界。


(……だから、あんなにボロボロだったんだ)


 ルシアンが抱えていた絶望の正体を知り、エナの胸は張り裂けんばかりに締めつけられた。


 今の彼は、独りなのだ。


 物語が終わった後の、誰も見届けてくれない暗闇の中で。

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