【67】見上げるは、緋色の眸〈4〉
ルシアンはゆっくりと体を起こし、上で泣きじゃくるエナの肩にそっと手を置いた。そして、彼女の小さな背中を宥めるように優しく撫でる。
「聞いてくれ……」
ルシアンは深く息を吐き、喉の奥に固まった苦い想いを、一つひとつ吐き出すように紡ぎ出した。
「あの時は……君の隣にいると、僕が僕じゃなくなっていくような気がして、それが恐ろしかった」
(クローディアを想う自分を盾にして、君から逃げていただけなんだ。君を失うのが怖くて、先に自分から捨てようとした。僕は最低のクソ野郎なんだ)
「エナは悪くない。本当に……すまなかった」
(君を独り占めしたい、触れたい……そんな、自分の中にあるドロドロとした醜い欲望が、君を汚してしまう気がして。耐えられなかった)
けれど、カリムと話したあの日、もう逃げないと決めたのだ。
自分の本音とも、エナとも、真っ直ぐに向き合う覚悟を決めた。
ルシアンが曝け出した無様な本音に、エナはしばし呆然としていた。やがて泣き腫らした顔をくしゃりと歪めると、ルビーの瞳が再び潤み始める。
「……じゃあ、元に戻れる?」
「──っ、ああ」
不意に込み上げた熱に喉を詰まらせながらも、ルシアンは力強く深く頷いた。
安堵したように息をつき、瞳からまた大粒の涙をこぼす彼女を見て、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
今すぐ、抱きしめたい。真っ赤になったその顔中に、口づけを落としたい。
気づけば息を詰めていた。悟られないよう、そっと息を吐き出すと、ルシアンは指の背で涙の跡が残る彼女の頬に触れた。
「……また、一緒にいてもいいの?」
「僕の方こそ、君の傍にいたいんだ。エナ」
エナの目が、まん丸に見開かれる。
彼女は驚いたように息を呑み、ほんのりと顔を赤く染めると、嬉しそうに目元を綻ばせた。
「──ルシアン」
吐息混じりの声で、名前を呼ばれる。
「なんだ?」
問い返す声が、自分でも驚くほど甘く、優しく響いていた。
甘やかな静寂が、二人の間に満ちる。
「だーいすき」
(──っ!?)
あまりに無防備で、あまりに真っ直ぐな言葉だった。
参った、と心の中で呟く。
本当は、こうなるのが怖くて距離を置いていたのだ。
視線を逸らし、耳を塞ぎ、彼女が嬉しそうに自分を見上げるたびに湧き上がるこの何かに、名前を付けなければいいと思っていた。そうすれば、また前の自分に戻れると高を括っていた。
ルシアンは肺の空気をすべて出し切るような、重く、長い溜息をついた。自分の顔に、血が集まっているのがはっきりとわかる。
(僕は今、どんな顔をしているだろう。……笑えているだろうか。それとも、泣きそうな顔をしているだろうか)
瞳が濡れたことを悟られないよう、ルシアンは俯いてエナの後頭部にそっと手を回した。壊れ物を扱うような手つきで、彼女をゆっくりと枕に沈める。
(泣きたくなるくらい、僕は……君のことが好きだ)
それは、ずっと前から心の中にあったはずの答えだった。
けれど、クローディアへの執着や、自分自身の醜い独占欲を恐れるあまり、ずっと心の奥底に封じ込めていた。
(もう、ずっと前から思っていたのに。情けないことに、照れくさくて、一度も言えなかった)
想いは言葉にしないと、何一つ伝わらない。
自分が黙って逃げ出したせいで、彼女をどれほど孤独な淵に追いやってしまったのか。今日、身をもって知ることができた。
「──エナ」
ルシアンはありったけの愛おしさを込めて、ひどく穏やかな表情で彼女を見つめ返した。
「君は、僕に幸せになってほしいと常日頃から言ってくれていただろう? だが僕はもう、十分すぎるくらい幸せだ。君が傍にいてくれるだけで、僕は幸せだったんだ……」
空いている方の手で、エナの髪を優しく梳いていく。彼女に少しの不安も抱かせまいと、意識して、溶けるような甘さと慈しみを声に乗せた。
「だから、今度は君に幸せになって欲しい」
ルシアンはエナの手を、今度は指先の体温をはっきりと感じるまで優しく包み込んだ。以前、己の弱さから払い除けてしまった、あの小さな手を。
「おやすみ──エナ」
そうして、すべてを捧げるような誓いを込め、彼女の指先へそっと口づけを落とした。
「……!?」
エナは目を白黒とさせて、ルシアンを見つめた。それから顔を林檎のように真っ赤に染めると、ぐいっとシーツを引き上げて顔を隠してしまった。
「うー……」
シーツの布越しに、恥ずかしそうな呻き声が聞こえてくる。そのあまりにも無防備で素直な反応に、ルシアンは不意を突かれたように一瞬だけ目を丸くした。
けれど次の瞬間、堰を切ったようにふっと目元を和らげる。そこには、愛してやまない相手を前にしたような、ひどく穏やかな笑みがあった。
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