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【68】見上げるは、緋色の眸〈3〉

(そんなこと、言わないでくれ)


 ルシアンは震える手で、襟元を離れていったエナの小さな手を、上から縋るように強く包み込んだ。


「……すまない。エナ、聞いてくれ。君を避けていたのは、嫌いだったからじゃないんだ」


 エナはルシアンの手に触れた瞬間、びくりと肩を揺らしたが、逃げ出すことはしなかった。ただ、唇を白くなるまで噛み締め、潤んだ瞳でじっとルシアンを見つめる。


「それから……さっきの話に戻るが、僕に婚約者はいない。あの日エスコートしていたメルディア嬢は、彼女の婚約者のアルベールに、先に行ってくれと頼まれただけなんだ。あの時は──君を無視するような真似をして、本当にすまなかった」


「……もういい。聞きたくない」


 エナはぴしゃりと言い放つと、ルシアンの手を振り払うようにして、ふいっと顔を背けた。投げやりにベッドの端に座り直すその背中は、ひどく頑なだ。ルシアンは、その小さく丸まった背中を見つめながら、自分が彼女の心をどれほど深く、取り返しがつかないほどに抉ってしまったのかを痛感していた。


(僕の行動が招いた結果だ)


 自分もまた、同じように彼女を突き放し、この冷たい態度をとっていたというのに。いざ自分がその立場に置かれると、どうすればいいのかわからない。


 弁解の言葉さえ見つからず、二人の間にはただ重く息苦しい沈黙だけが落ちていく。永遠にも思えるような時間が過ぎた後、顔を背けたままのエナの小さな肩がわずかに動き、やがてぽつりと呟きがこぼれた。


「……ねえ、婚約者がいないなら、どうして私を避けてたの?」


 その問いに、ルシアンは返す言葉を見つけられず、深く項垂れた。


 ──言えるはずがない。

 君に──エナに惹かれていたからこそ、避けていたのだと。


 その想いを認めれば、クローディアへの愛を盲目的に信じ続けてきた過去の自分を、自ら裏切ることになる。そんな不誠実な男にはなりたくなかった。


 だから、これ以上君を好きにならないよう、必死に距離を置いた。その弱さゆえに、一番近くにいた君を何度も傷つけたのだと──今さら口にできるはずもなかった。


 言い訳もせずに無言のままでいる情けない姿を、肩越しにちらりと盗み見たエナの瞳に、すっと悲しみの色が濃く滲む。


「なんで、あんなに怖いくらい無視したの……? ……私が傷つくだろうって、想像しなかったの?」


 ルビーの瞳に、再び熱い涙が溜まっていった。紡がれる言葉の隅々に、これまで押し殺してきた呼吸の荒さが混じり始める。


「理由がないなら、なおさらひどいよ。そんなのって、ない……」


 エナの背中が、小さく震える。ルシアンは、その痛ましい背中へ向かって、懺悔するように声を絞り出した。


「すまない」

「ゆ、許さないから」


 それ以外に何を言えばいいのかわからなくて、ルシアン目を伏せ、再び口を開く。


「……すまない」

「う、うるさい。許さないって言ってるでしょ!」


 顔を歪ませたエナが振り返り、ルシアンの頬を打った。乾いた音が医務室に響く。ルシアンは一切の抵抗をせず、その痛みこそが彼女の心の傷そのものなのだと、静かに受け入れた。


 しかし、その平然と打たれるがままの姿が、かえってエナの感情を逆撫でしたらしい。彼女は怒りと悲しみに満ちた目でルシアンを睨みつけると、ぐっと彼の身体を強く押し退けた。

 バランスを崩したルシアンは、そのままベッドの上へと仰向けに倒れ込む。


「なんで……なんでよ!」


 エナはルシアンの上にのしかかると、反対側の頬を叩き、胸板を何度も力任せに殴りつけた。小柄な女子の細腕ゆえに、痛みというよりは柔らかな圧迫感に近い。


「私、ここにはルシアンしかいなかったのに! ルシアンしかいないのに、どうして突き放したりしたの……っ!」


 ドン、ドンと胸を叩く鈍い振動が響く。不格好に叩きつけられる拳の感触が、ルシアンの心を揺さぶってくる。


「苦しいよぉ。避けられて、この世界で一人ぼっちにされて、私はどうすればよかったの!? もう嫌だ、帰りたいっ、元の世界に帰してよ……!」


 ──ドンッ、と、ひときわ強い一撃が胸に落ちた。


「ルシアンのことなんて好きじゃない! 嫌い、大嫌いっ!」


 これまで見たこともない激しく乱れたエナの姿に、ルシアンの心臓が跳ねた。眉を寄せ、泣くのを我慢しようとしながらも感情を爆発させているエナの顔を見上げていると、いつの間にか微かな笑みがこぼれていた。


(いけない。こんな時に笑うなんて)


 ルシアンは反射的に片手で口元を覆い、どうにか表情を隠そうとする。


 自分に関心を向け、ありのままの感情をぶつけてくれる。それがどうしようもなく愛おしくて、ルシアンは無意識のうちに恍惚とした笑みを浮かべていた。


(ああ、彼女は本当に僕のことを……)


 胸の奥が甘く痺れるような熱い感覚に陥りながら、ルシアンは口を覆っていた手をそっと下ろし、穏やかな声で告げた。


「すまない、本当に申し訳なかった」

「絶対に許さないから!」

「ああ、許されなくていい。謝って済むことじゃないが、本当に申し訳なかった」

「……ゆ、ゆ、許せない、ってば!」


 必死に声を荒らげるエナの表情は、怒りに歪んでいるというのに、あまりにも生々しくて、そして痛々しいほどに愛らしかった。

 完璧な聖女の微笑みなんかじゃない。そこには、ありのままの彼女の感情があった。


 ふと、自分の頬が熱いことに気づく。

 それはエナに何度も打たれたからなのか、それとも、彼女の愛情を確信した歓喜による熱なのか、自分でも判断がつかなかった。ただ、胸の奥が甘く痺れているのがわかる。


 けれど、そんなルシアンの様子を間近で見下ろしていたエナは、赤く染まった頬を目にするとはっと息を呑んだ。エナの表情がみるみるうちに強張っていく。


「──エナ」


(そんな顔をしないでくれ。君には、笑っていてほしいんだ)


 怯える彼女を安心させるように、ルシアンはその名をひどく優しい声音で呼んだ。震える頬へそっと手を伸ばし、乱れた髪を耳へとかき上げる。


 ルシアンの指が離れた瞬間、エナは耐えかねたように唇をくしゃりと歪ませた。


「……ごめん」


 そう呟いた彼女のなかで、張り詰めていた糸がぷつりと切れたのだろう。その緋色の瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。


 さらさらと絶え間なくこぼれ落ちる涙が、ルシアンのシャツを濃く濡らしていく。

 エナはそのままルシアンの上にぺたりと座り込んだまま、両手で顔を覆い、しゃくり上げながら声を押し殺して泣き始めた。

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