【65】見上げるは、緋色の眸〈2〉
『──ルシアンのことが、好きだから』
エナの告白に、ルシアンは息を呑んで硬直した。
体中の血が一気に逆流するような、甘やかな痺れが指先まで駆け抜ける。
(いや、違う。そんなわけない……)
「……嘘だ。化け物の僕を……好きになってくれる人なんて、いるはずない」
ルシアンは激しい動揺に耐えかねるように、片手で顔を覆った。「嘘だ」と、うわ言のように繰り返す。彼女を突き放し、傷つけた自分を好きだなんて。そんな都合のいい話など、あっていいはずがない。
「ルシアン……?」
突然取り乱したルシアンに、エナはおっかなびっくりした様子で身を乗り出し、その顔を覗き込もうとする。
しかし、その気遣いすら今のルシアンには見えていなかった。どうにか荒い呼吸を整え、無理やり冷静さを取り戻した思考が、冷たい言葉を紡ぎ出す。
「君は僕への恋情だと言ったが、ありえない。僕は人に好意をもらえるような人間じゃないんだ。それは、僕自身が誰よりも理解している」
「そんなことない! ルシアンのこと好きな人はいっぱいいる。私だって好き──ううん、愛してる」
ずっと渇望していた言葉をエナから与えられ、ルシアンの涙腺は熱を持ち、胸の奥がじくりと疼いた。正直、泣きたいほど嬉しい。堪えきれずに震える唇を、強く噛み締める。
本当は信じたい。けれど、信じた瞬間にそれが失われたときの傷も、同時に受け入れることになる。
もうこれ以上傷つきたくない。その強固な自己防衛の本能が、すがりつきたい衝動を無理やり押さえ込む。そしてエナの言葉を試すように、ルシアンは迷いながらもわざと彼女を遠ざけるための棘のある言葉を探した。
「……そもそも、僕は君が聖女だなんて知らなかった。今まで言う機会は何度もあったはずだ」
震える息で意地悪な言葉が口をついて出る。聖女には守秘義務があったのかもしれない。それでも、ルシアンに言わないという選択をしたのはエナ自身だ。ルシアンの予想通り、痛いところを突かれたエナはたじろいだ。
それを見て、ルシアンはひどく自嘲的に顔を歪める。
「愛してると言ったが、それならどうして……母上は僕を愛してくれなかったんだ? 自ら死を選ぶほど僕を憎んでいたんだ? どうして……クローディアにも愛されなかったんだ? そして君にまで、嘘をつかせてしまったんだ?」
皮肉げにこぼすルシアンの言葉に、エナは悲しそうに眉を寄せて目を細めた。
「それは……違うよ、ルシアン。誰も貴方を憎んでなんか……」
彼女はまるで、ルシアンの過去の傷をすべて知っているかのように、痛ましげに声を震わせた。
愛したら愛されると思っていた。でも違った。注いだ愛情はことごとく裏切られてきたのだ。本当は彼女の言葉を信じたい。けれど、信じるのが怖い。自分は誰にも愛されていないのだと、これ以上思い知らされるのは、もう耐えられなかった。
「聖女は高潔なんだな。こんな僕を好きだと嘘をついてまで、哀れな男に慈悲をお与えになってくれるのだから」
そう言って、ルシアンはひどく冷たく笑ってみせた。
(なんて馬鹿なのだろう、自分は)
好きな人が自分を好いていると言ってくれているのに、それを信じられないで、あまつさえ残酷な言葉で突き放している。
しかし次の瞬間、ルシアンは自らのその暴言を激しく悔いることになった。
穏やかに笑おうとしていた彼女の顔が、みるみるうちに崩れていく。ルシアンは自分を守るためだけに、彼女に一番残酷な言葉をぶつけてしまっていたのだ。
こめかみからじっとりと冷たい汗が伝う。
エナはもう、笑っていなかった。
ルビーの両目からは、大粒の涙がとめどなく溢れ出していた。
「……にしてよ」
俯いていた顔が、ゆっくりと上がる。
「いい加減にしてよ!」
そこには、これまで見たこともないほど激しい、怒りと悲しみ、そして仄暗い失望が入り混ざった表情があった。
「ルシアンのことが大事だから、大切だから、愛してるから、助けたの! なのにまだ聖女だからか、なんて遠い言葉で返されるの?」
ひっく、と喉を鳴らしてしゃくり上げた瞬間、堰を切ったように涙がさらさらと彼女の頬を伝っていく。
「それに……婚約者ができて私が邪魔になったなら、はっきりそう言ってくれればよかったのに! 距離を置きたいなんて優しいふりしないで、もう近づくなって、言えばよかったじゃん!」
ぽろぽろと零れ落ちる涙とは裏腹に、彼女の叫びは張り裂けそうなほどの痛切な響きを帯びていた。
(婚約者……? 何の話だ?)
「婚約者って、一体何の──」
「今はレイチェル・メルディアさんのことはどうでもいいの!」
掠れた声を掻き消すように、エナはルシアンの襟元を掴んだ。ぐい、と無理やり自分の方へ引き寄せ、至近距離でルシアンを射抜く。
「ルシアンのこと、幸せにしようって……私なりに必死だったんだよ! 初めて会った時、ボロボロに傷ついていた貴方を見て、そう決めたから!」
はらりと落ちたエナの髪が、ルシアンの視界を覆う。鮮烈な緋色が網膜を射抜き、ルシアンは完全にエナの纏う空気に呑まれていた。
「右も左も分からない異世界にやって来て、やっと貴方に出会って。……二度と会えないお父さんとお母さんのことも、二度と帰れない家のことも、考えないように忘れた振りをして。……二度目の高校生活を繰り返してまで、ここにいるのに……っ!」
(異世界。帰れない家。二度目の高校生活──?)
エナが泣きじゃくりながらぶつけてくる言葉の意味を、ルシアンは正確には理解できなかった。けれど、彼女がそれだけのものを引き換えにして、この場所に留まっていることだけは痛いほどに伝わった。
「それでも、ルシアンのこと、私は……っ。私がっ……どんな気持ちで、あなたに避けられたと思ってるの……?」
長い睫毛の縁から、ぽろぽろとこぼれる涙。その一粒一粒がルシアンの頬を伝って、胸を濡らし、彼女を無視した時間の重さとなって突き刺さる。
「…………」
ルシアンは言葉を失った。
彼女はこの世界で、たった一人で戦っていたのだ。家族も故郷も、世界さえ違う場所で。ルシアン・ベルクレアという、不完全で臆病な男だけを心の杖にして。
それなのに、自分の浅はかな恐怖から、その杖を彼女から取り上げようとしたのだ。
(そんな僕が、一体彼女にどんな言葉をかけられる……?)
「ごめん……八つ当たりした。私の気持ちなんて、ルシアンにとって関係ないことなのにね」
エナは力なく、すべてを諦めたような淡い笑みを浮かべた。自分を繋ぎ止めていたはずの熱が引いていくように、ルシアンの襟元を掴んでいた小さな手が、力なく解けていく。
(嫌だ──)
その手が離れてしまったら、二度と彼女の心に触れることはできない。そんな言いようのない恐怖がルシアンを突き動かした。




