【64】見上げるは、緋色の眸〈1〉
「──エナ!」
倒れ込むエナの体を支えようと、カリムが咄嗟に腕を伸ばした。しかし、それよりも早くルシアンが身を翻し、横から奪い取るような形で彼女の細い体を抱きとめる。
(……くそっ)
自分の腕の中に、確かなエナの体温を感じながら、ルシアンは奥歯を噛み締めた。
あんなに彼女を遠ざけ、冷たく突き放して傷つけたのは自分だというのに。どうして、また彼女に無理をさせてしまったのか。なぜ、彼女が気を失って倒れるまで気づけなかったのか。原因もわからず、ただぐったりと目を閉じたエナを前に、ルシアンはその額を彼女の髪に押し当てた。
(僕はいったい、何をしているんだ)
ぐったりとしたエナを抱きしめる指先が、己への怒りと情けなさで小刻みに震える。クローディアを愛していると言い聞かせてきたプライドが、今の自分にはひどく滑稽で、吐き気がするほど醜いものに思えた。
「こっちです!」
ふいに聞き慣れた友人の声が耳に飛び込み、ルシアンはハッと顔を上げた。アルベールの切迫した声と共に、慌ただしい足音が近づいてくる。
「カリム! 校医の先生を呼んできたぞ──」
息も絶え絶えのセオドア先生を連れて駆け込んできたアルベールが、その場でぱちりと目を見開いて驚愕した。
それもそのはずだ。つい先刻まで重傷を負い血の海に倒れていたはずのルシアンが、血まみれの衣服のままピンピンと立ち上がり、あろうことか一人の女子生徒を大事そうに横抱きにして離そうとしないのだから。
しかし、今のルシアンにはアルベール含め周囲の困惑など、どうでもよかった。必死な表情を隠さずに、エナを抱えて歩き出す。ざわめきながら道を開ける大勢の生徒たちを真っ直ぐに通り抜けていく。
──彼女が目を開けたら、なんと謝ればいい?
向き合う心の準備はできていたはずなのに、腕の中の静かな表情の彼女を見ていると、情けないほどに言葉が見つからない。
許されるはずがない。それでも、もうこの温もりを誰にも渡したくないと叫ぶ心は、聖女を抱くにはあまりに汚れていて、けれどどうしようもなく真実だった。
◾︎◾︎◾︎
エナを医務室へ運び込み、セオドア先生が状況報告のために職員室へ向かってもなお、ルシアンはずっと一人で彼女の傍らにいた。椅子に深く腰掛け、意識のすべてを隣で眠るエナに向けて、静かに息をつく。
いつの間にか日は暮れ、窓の外には月が昇っていた。青白い月光がカーテンの隙間からこぼれ落ち、ベッドで横たわるエナの横顔を冷たく照らしている。
(呼吸は……しているか。指先は、冷えていないか)
何度も、何度も確かめずにはいられない。真っ青な顔色と、浅く不規則な呼吸は間違いなく、無理な治癒魔法による魔力枯渇の症状だった。
あの時、重い瞼は開かなかったけれど、蝕むような激痛に手放しかけていた意識はゆっくりと覚醒していった。全身を包み込んだ温かな癒しの光と、流れ込んでくるエナの魔力の感覚を、ルシアンははっきりと覚えている。
そして、その感覚には確かに覚えがあった。あの日と、まったく同じ感覚。
『……二回目だよ、もう』
彼女の言葉が蘇る。あの時からすでに、エナに聖女の力を使わせていたのだ。自分はずっと前から、知らぬ間に彼女に救われていた。
眠るエナの手にそっと触れる。
(こんな小さな手で、僕を助けてくれたのか……)
それにしても、エナが人間国宝ともいえる聖女だったなんて、正直なところまだ現実味がない。いつもあんなにすぐ近くにいたのに、自分はまったく気づけなかった。
医務室に駆けつけたセオドア先生からは、「彼女は命に別状はないから、君もまずは休みなさい」と何度も諭された。しかし、ルシアンは首を横に振って頑なにここを離れようとしなかった。見かねたカリムが一度だけ医務室を訪れ、無言で真新しいシャツとズボンを置いていってくれたおかげで、ようやく血まみれの服から着替えることができたが、それ以外は一歩もこのベッドの横から動いていない。
魔力枯渇は、聖女にはよくあることだと聞いた。安静にしていれば治る。理屈ではわかっているのに、彼女の指先に触れる自分の震えが止まらない。
だって原因は──自分だ。
(僕の不注意な傷を治すために、彼女は倒れたんだ)
あの演習中、ルシアンはひどくぼんやりとしていて、まったく集中できていなかった。心のどこかに慢心があったのも否めない。その精神の乱れがもろに魔法の構築に影響し、結果として未完成の魔法陣が暴発してしまったのだ。
唯一の幸いがあるとすれば、それが完全に自業自得だったという点くらいか。もしこれが誰かの手による負傷であれば、プライドの高い我が侯爵家が決して黙っていなかっただろう。
自嘲の笑みが浮かぶ。自己の弱さの嫌悪、エナへの罪悪感、そしてそれらをようやく直視したことによる羞恥が、ルシアンの胸を激しく掻き乱していた。
俯きかけたその時だった。
ふいに、枕元でわずかな摩擦音がした。
ルシアンは弾かれたように顔を上げた。目を見開き、ベッドへ視線を向ける。
伏せられていたエナの瞼が、ぴくりと小さく痙攣した。
「んんぅ……」
喉の奥から微かな声が漏れる。
重い瞼を押し上げるようにして現れたルビーの瞳が、ぼんやりとルシアンの姿を捉える。
「エナ!」
ガタッと大きな音を立てて椅子を蹴倒しながら、ルシアンは思わず身を乗り出した。
エナの視線が自分に重なった瞬間、張り詰めていた何かが音を立てて崩れそうになる。
彼女の瞳に映る自分は、きっと見るも無惨な姿だろう。髪は乱れ、瞳は真っ赤に充血し、ひどく憔悴しきった顔をしているはずだ。
「よかった。目が覚めたんだな……」
安堵で膝の力が抜けそうになりながら、ルシアンは慌ててセオドア先生を呼ぼうと踵を返しかけた。けれど、エナの小さな手がルシアンの服の袖をぎゅっと掴んで引き止める。
「ルシアン。……傷は、どこ? 見せて」
目覚めて一番に、エナが口にしたのは自分を案じる言葉だった。
ふらつきながらも上体を起こし、傷ひとつなくなったルシアンの身体を確認すると、彼女は「……よかったぁ」と、心底安堵したように長い吐息を漏らした。
「──なぜ」
喉の奥が、泣きたくなるほどの罪悪感で焼けるように熱くなる。呼吸が圧迫されているようで、息苦しい。自分勝手に彼女を拒絶し、理由も告げずに無視し続けた。そんな、最低な男のために。なぜ、そこまでできるのか。
「どうして……僕なんかのために、こんな無茶をするんだ。君に助けられる資格なんてない。僕は、君にひどい態度をとっていたのに」
絞り出すような声は、後悔でひどく掠れていた。
エナはルシアンの視線から逃げるように、静かに目を伏せる。震える唇をきゅっと結び、彼女は胸の奥の想いごと飲み込むように、小さく息を吐いた。
「……私は、聖女だから。放っておけなかっただけだよ」
エナはにこりと微笑み、まるで大したことではないとでも言うように肩をすくめておどけてみせた。そのあまりにも軽やかな、自分を切り捨てたような言葉に、ルシアンの心臓が激しく波打つ。
「……君はいつもそうだ。どうして自分のことより、僕のことを先に気にするんだ」
聖女だから。そんな、個人の感情を殺したような言葉で済ませられるわけがない。聖女なら、誰にでもこんな献身をするというのか。少なくともルシアンには、そんなことはできない。
「うーん……」
エナは困ったように苦笑して、言葉を区切る。
「聖女だからっていうのは、本当だよ。でもルシアンのことを助けた理由は、それだけじゃない」
そのまま、カーテンの隙間から差し込む青白い月光を、そのルビーの瞳に吸い込むようにして、真っ直ぐにルシアンを見上げた。
「──ルシアンのことが、好きだから」
エナは少しだけ照れたように笑った。
「だから、放っておけなかった」
激流のように巡っていた思考が留まる。
凛としたその言葉が、熱を帯びた夜の空気の中に、ぽつりと落とされた。




