【63】祈りにも似た、献身〈3〉
あの日、学園長から渡された時の言葉が脳裏を駆け抜ける。
エナははっと息を呑んだ。忘れていたわけではない。ただ、その存在を思い出す余裕すらなかったのだ。
エナは迷わず服の下から、虹色の光を放つ乳白色のネックレスを引きずり出した。
「私は聖女です。これがその証明です! 私は、彼を助けられる!!」
見習いという言葉はあえて飲み込み、強く、腹の底から叫んだ。
そのネックレスの意匠が放つ申請な光が目に入った瞬間、を支配していた喧騒が水を打ったように静まり返った。一瞬にして周囲の生徒たちは言葉を失い、怒気を孕んでいた教授もハッと息を呑む。
──聖女の証。その重みと意味を知る教授は、目を見開いてエナを注視し、一秒ののち、深く頷いた。
「……お願いします」
短く、祈るような声だった。
エナは強く頷き、弾かれたように駆け寄ってルシアンの側に膝をついた。教授たちの手から止血帯をひったくるようにして、彼の傷を露わにする。
「嘘……なんで、こんなに……」
傷口を直視した瞬間、声が無様なほどに震えた。あらわになった惨状に、周囲の生徒たちからもヒッと短い悲鳴が上がる。
肩口の衣類が鋭く裂け、肉が爆ぜている。頭部からも出血があり、彼は意識を失ったまま苦しそうに呼吸を繰り返していた。
「どうして、こんな状態になってるんですか」
すぐ近くにいた教授に非難するように尋ねる。
「ベルクレアくんが編んだいた魔法陣が暴発したんだ。未完成の魔法を、至近距離からまともに浴びたようで、それで……」
教授もまた、苦渋に満ちた表情で顔を歪めていた。
(……重症だ)
想像を遥かに超える酷い怪我に、エナは唇を震わせた。それでも必死に深呼吸をし、血に塗れた傷口に震える両手をかざす。
(大丈夫。授業で散々、治癒の練習はしてきた。……あの感覚を思い出して)
肺に深く空気を吸い込み、意識を一点に集中させる。次の瞬間、エナの手のひらから、溢れんばかりの白い光が放たれた。同時に、周囲の騒がしさが、嘘のように遠ざかっていく。自分の心音だけが、耳の奥でやけに大きく響いていた。
「──おおっ」
周囲の教授たちが息を呑む。
温かな光が、ゆっくりと時間をかけて裂けた肉を繋ぎ合わせ、塞いでいく。
次第に、浅く乱れていたルシアンの呼吸が安定を取り戻し、痛みに歪んでいた顔から苦悶の表情がすっと消えていった。
「嘘だろ? 傷が塞がっていく……」
「あれが、聖女の治癒魔法なのか──」
遠巻きに見ていた生徒たちの間に、驚愕と歓喜が混じり合ったどよめきが走る。
(やっぱり傷が深い。それでも、魔力は足りるはず……っ)
光はルシアンの身体を優しく包み込み、裂けた肉を完全に繋ぎ、止まらない出血を抑え込んでいく。
数分が、永遠のようにも感じられた。
やがて光が収まり、ルシアンの胸が先ほどよりも深く、確かなリズムで大きく上下する。
「……う、ん……」
伏せられた長い睫毛が、微かに震えた。
ゆっくりと開かれた紫水晶の瞳が、焦点を結ばないまま、ぼんやりとエナを捉える。
「エナ……?」
その声を聞いた瞬間、エナの涙腺が決壊した。ボロボロと涙を溢れさせながら、ルシアンの手をぎゅっと両手で握りしめる。
「ルシアン……っ、よかった……!」
沈黙を破って、わっと周囲から割れんばかりの歓声が上がった。
「──目を開けたぞ!」
「──傷が塞がったわ」
「──奇跡だ!」
安堵と興奮の混じった声が、頭上を通り過ぎていく。
「よかったぁ……」
張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、エナはがくりとへたり込んだ。凄まじい疲労感が襲ってくる。肺に溜まっていた熱い空気を、安堵とともに深く吐き出す。
ルシアンは、のろのろと上体を起こした。まだおぼつかない手つきで自身の肩に触れ、傷が完全に塞がっていることに気づき、愕然とする。
「傷が、ない……」
掠れた声で呟き、心底驚いたような顔のルシアンがエナを見上げた。
「エナ、君は……聖女だったのか?」
呆然と呟く彼の揺れる瞳の奥で、言葉にならない感情が渦巻いているのがわかった。
「どうして──」
どうして、僕なんかを。
声にすらならず、ただ唇の動きだけで零れ落ちた呟きに、エナは顔を歪めた。
エナを見つめる紫水晶の瞳には、戸惑いが滲んでいる。なぜ彼女が自分を助けたのか、どうしても理解できないと、その表情が切実に訴えているようだった。
この場にいる者の中で、ルシアンの抱える暗い過去を本当に理解しているのは、おそらく自分だけだろう。幼い頃から何度も見捨てられ、拒絶され続けてきた彼には、自分が誰かに無条件で救われる理由など、どうしても思い当たらないのだ。
彼のそんな頑なな心がたまらなく悲しくて、エナの胸にちくりと痛みが走る。
それでも、その悲痛な胸の内に気づかないふりをして、エナは声を紡いだ。
「……二回目だよ、もう」
泣き笑いのような顔でエナがくしゃりと微笑めば、ルシアンは呆然としたまま、やがて何かを堪えるようにゆっくりと目を伏せた。
「エナ!」
そこへ、カリムが猛烈な勢いで駆け寄ってきて、エナの身体を力いっぱいに抱きしめた。
「うぐっ」
あまりの力強さに、エナは思わず呻き声を漏らす。
「ありがとう。ほんとに、ありがとう」
ローブ越しに伝わってくるカリムの体は、大切な親友を失わずに済んだという安堵からか、いまだに細かく震えていた。エナはその震えが残る大きな背中を、ぽんぽんと優しく叩く。
「いえいえ。聖女の役目を全うしただけだから」
「ルシアン!」
今度はカリムがルシアンに飛びつくように抱きついた。自分の頬を彼の頬にぐりぐりと押しつける。
「あー、よかったぁ……」
「う、うっ……カリム、苦しい。離れろ……」
「馬鹿野郎! 俺らがどれほど心配したか!」
文句を言うルシアンに構わず、カリムがぎゅうっと腕を締め上げる。
「よかった。本当に……」
小さく零れた本音に、ルシアンは困惑しながらも、やがて困ったように眉を下げてその巨体の背中にそっと手を回した。
しばらくしてカリムが体を離すと、改めてエナに向き直った。
「エナ、改めて……。ルシアンを助けてくれて、ほんとに感謝してる」
その言葉に促されるように、ルシアンも何かを言いかける。しかし、エナに対して自分が取ってきた冷たい態度を思い出したのか、気まずそうにすっと目を逸らして俯いてしまった。
(……相変わらず不器用な人)
そんな彼の様子がおかしくて、同時にどうしようもなく悲しくて、エナは込み上げる切なさを隠すように、ふっと柔らかく目を細めた。
「ごめんね、立てる?」
カリムが優しく手を差し出してくる。その言葉には、さっき感情に任せてエナをきつく抱きしめてしまったことへの謝罪というよりは、何も言えずにいるルシアンへの気遣いが滲んでいた。
その絶妙な気遣いに気づいたエナは、思わず笑みを深める。
(本当に、この人は優しい)
「えへへ、全然大丈夫だよ──」
へにゃりと笑って、その手を取って立とうとした、その瞬間。足元がふらりと揺れ、視界がぐにゃりと歪んだ。
(……あ、れ?)
伸ばしたはずの指先から、急速に力が抜けていく。
カリムたちが狼狽えたように、何かを叫んでいる。その声は確かに聞こえているのに、意味がまったく頭に入ってこない。
(えっ、なんで)
内心で焦るエナの脳裏に、ふと教授の声が蘇った。
『治癒の光は、術者の魔力を削って発動する力なの。言い換えれば、自分の力を相手に分け与えているようなもの。── だから当然、使えば使うほど魔力は減る。配分を誤れば、術者が先に倒れるわ』
(ああ、そうか──)
やがて、ぷつりと糸が切れたように、すべての音が遠ざかった。周囲の景色が、混ざり合った絵の具のようにぐにゃりと滲んでいく。
(魔力、使いすぎちゃったんだ……)
倒れ込む体を支えようとしてくれた誰かの腕の熱を感じながら、エナの意識は、ゆっくりと深い眠りの底へと沈んでいった。




