【62】祈りにも似た、献身〈2〉
演習場に辿り着くと、ある一点に二重三重の人だかりができていた。
(あそこだ!)
エナは必死に爪先立ちになり、人混みの隙間に視線を走らせた。騒ぎを聞きつけた他の生徒たちもちらほらと集まり、場は混沌を極めている。最前列すらまったく見えない。
「ルシアン!」
堪らずに名前を叫び、人混みを掻き分けようとする。
「おい、押すなよ!」
「ちょっと危ないでしょ」
苛立つ声が飛んでくるが、そんなことはどうでもいい。けれど、非力なエナでは数メートル先の彼にどうしても辿り着けなかった。
(どうしよう……近づけない!)
焦燥で視界が滲みかけたその時、
「エナ!」
背後から名を呼ばれた。振り返ると、そこには飄々とした余裕を崩したカリムが、髪を振り乱して立っていた。
「カリム……!」
エナがその姿を認めた途端、カリムは弾かれたように駆け出した。数歩で二人の間を埋めると、彼はエナの手首を掴む。痛みを覚えるほど強い力だった。
「ルシアンが……ルシアンが、大怪我をして、あの人だかりの中で……っ」
いつになく顔を引きつらせたカリムは、掠れた声で訴えた。手首を掴む手は、見て取れるほど震えている。
「──頼む。ルシアンを助けてくれ」
カリムは縋るような目をして、エナを見た。時計塔で出会った時の飄々とした余裕など欠片もないほどに。
エナは彼を安心させるように、力強く頷き返した。
「大丈夫、わかってる。助けるために来た!」
エナが叫ぶように応えると、カリムは今にも泣き出しそうに顔を歪ませた。
「ありがとう。ありがとう……」
カリムは深く息を吐き出すと、震えていた手から力を抜き、覚悟を決めたようにぎゅっとエナの手を握り直す。
「俺の手を離さないでね」
そう言って、カリムは無理に口角を上げてみせた。しかしそれは、ひどくぎこちない不器用な笑みだった。すぐに前を向き直し、有無を言わさぬ声で叫ぶ。
「どいてくれ!」
エナの手を引いたカリムの大きな背中が、壁のように人混みを割っていく。
(すごい……)
王族である彼が凄まじい気迫を纏って迫りくる気配に、周囲の生徒たちはざわめきながらも、波が引くように道を開けた。
こじ開けられた道の中心へと視線を向けたエナは、そこに三人の教授に囲まれて横たわる人影を認め、思わず息を呑んだ。
「うそ──っ」
青々とした芝生の上が、どす黒く濡れている。
ドクンと心臓が嫌な跳ね方をした。血の海の中に横たわり、ぴくりとも動かないルシアンの姿に、エナは頭を殴られたような衝撃を受ける。
「ルシアン!」
反射的に地面を蹴り、真っ直ぐに彼のもとへ駆け出そうとした。
「邪魔だ! 生徒は近づくな!!」
しかし駆け寄ろうとした瞬間、教授の一人に肩を強く掴まれ、乱暴に押し戻された。
「ワーグナー先生、待ってくれ! 彼女なら助けられる!」
カリムの声が飛ぶが、教授は振り向きもしない。
「下がれ! 今は処置中だ!!」
「セオドア先生はまだか!」
「呼びに行ってますが、ここから医務室は遠いため、まだ時間がかかるようです」
教授たちは必死に止血を試みている。しかし、押し当てた布は瞬く間に赤く染まり、その下からなおも血が滲み出ている。
教授の肩越しに見えたルシアンの顔は、血の気が引いたように青白かった。固く閉じられた瞼の下で、呼吸だけが浅く、苦しそうに胸を上下させている。
「……っ」
エナは唇を噛み締め、両手で教授の腕を掴み返した。
「お願い、離して! 彼を助けたいの!」
「邪魔だと言っているのがわからないのか。下がっていろ!」
怒鳴り声が落ちて、エナはびくりと肩を震わせた。
いや、当然だ。この教授の行動は正しい。医療の心得もない学生が勝手に入り込んで、処置の邪魔をしていい場所ではないのだから。
(それでも……近づけないと、助けられない)
どうしよう。どうやって、自分が聖女だと証明すればいい?
エナが焦燥に駆られている間にも、カリムが必死に横から口を挟む。
「先生、聞いてくれ! 彼女は聖女なんだ!」
「こんな時に馬鹿なことを言うな! 希少な聖女がここにいるわけがないだろう!」
極限状態にある教授の頭から聖女科の存在はすっぽりと抜け落ちており、カリムの必死の説得にもまったく耳を貸そうとしない。受け持っていないとそういうこともあるかもしれない。だが今は、そんな認識の齟齬に構っている余裕などなかった。
腕に傷を作ってそれを癒してみせる? いや、そんなことをしている時間はない。今のルシアンの様子を見ると、出血が多すぎて命に関わるだろう。ここから見える範囲の傷口は、明らかに強力な魔法によるものだ。
(どうしよう)
バクバクと早鐘を打つ自分の心音だけが鼓膜を叩き、焦燥感で頭がどうにかなりそうだった。胸のあたりが、恐怖で急速に冷えていくのを感じる。
無意識に胸元を両手で押さえた時、服の下で硬いものが指先に触れた。
「──あ」
『これは、魔導具です。聖女科の生徒には魔力を安定させる媒体として、常時身につけていただきます。──これはあなたが聖女である証明にもなりますから、くれぐれもなくさないように』




