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【61】祈りにも似た、献身〈1〉

 本を返却しようと、廊下を歩くエナの足取りはどこか軽かった。


(この前おすすめされた本、読みやすくて、わかりやすかったな。眼鏡の人……また会えたら感想言おう!)


 ふふ、と思わず口角が上がる。けれど、前方の角を曲がろうとした瞬間、華やかな笑い声が耳に飛び込んできた。ふと顔を上げたエナは、そこに思わぬ人物の姿を認めてピタリと足を止める。一瞬にして、胸の高揚感が霧散していくのがわかった。


(ルシアンと一緒に歩いてた子だ)


 この前、ルシアンの隣を歩いていたあの令嬢。友だちに囲まれ、ひときわ目を引く華がある。


「ねえ、レイチェル。さっき走っていたのって、あなたの婚約者だったわよね?」

「あーあ。話しかけなくてよかったの?」


 友人たちの茶化すような問いに、令嬢──レイチェル・メルディアは、恥ずかしそうに頬を薔薇色に染めて、はにかんだ。


「ええ。急いでいるみたいだったし。この前、ゆっくり一緒に食事をいただけたから……今日はいいの!」


(レイチェル……レイチェル・メルディア)


 初めて知った、彼女のフルネーム。あの綺麗な子は、そんな名前だったのか。

 エナは咄嗟に顔を背け、彼女たちの視界に入らないよう、壁際に寄ってすれ違った。


 脳裏に、あの日見た二人の後ろ姿が蘇る。

 整った横顔を並べ、同じ歩幅で歩くルシアンとレイチェル。その光景は、誰が見てもため息が出るほどに美男美女でお似合いだった。


 ずぅんと、鉛を飲み込んだような重みが胸に広がる。


 どこか、淡い期待を抱いていたのだ。言葉を交わし、手探りで彼の人となりを知っていくうちに、あのままずっと傍にいる権利が自分にも与えられるのではないかと。


(私じゃ、だめなんだ……)


 ルシアンを幸せにする。そう決意して今までくっついてきたけれど、結局それはエナの傲慢なエゴでしかないのだ。無作法に踏み込んでくるエナを、ルシアンは内心で疎ましく思っていたのかもしれない。


(いや、でも……あの日、ルシアンは友だちだって言ってくれた)


 あの日。星降祭の夜。ルシアンは初めてエナの名前を呼び、そして、はっきりとこう言った。


『ルシアンでいい。僕たちは、友人……だろう?』


 あの時は、舞い上がるほど嬉しかった。

 線を引くように“君”と呼んで名前を呼ばずにいた彼が、初めて境界を越えて名前を呼んでくれたのだ。それはきっと、彼なりの歩み寄りだと信じていた。

 けれど今、レイチェルの幸せそうな顔を見てようやく気づく。


 ルシアンが引いてくれた友人という境界線は、優しさではなく、それ以上は踏み込ませないための拒絶の線だったんだろう。


(婚約者がいるなら、言ってよね……)


 考えれば考えるほど、自分がひどく滑稽な道化のように思えて、エナは俯いたまま足を早めた。


「……ねえ、聞いた?」

「えっ、そんな……嘘でしょう?」


 ──ふと、周囲の空気がピリついていたことに気づいた。


 行き交う生徒たちが足を止め、一様に脇目も振らずに噂話に興じている。その横顔はどれも一様に青く、重々しい空気が肌を刺した。


(……なんだろう)


 妙なざわつきに足を緩めると、すれ違いざまに断片的な言葉が鼓膜を叩く。


「ベルクレアが、演習場で大怪我したって」

「えっ、嘘!? 大丈夫なの?」

「それが……血塗れで、意識もないって」


(……ルシアンが血塗れで、意識不明──?)


 視界が、ぐらりと揺れた。

 さっきまで感じていた嫉妬も、疎外感も、一瞬でどこかへ吹き飛ぶほど衝撃だった。

 バサッ、と乾いた音を立てて、腕の中から本が滑り落ちる。床に散らばった本の音が、遠くの方で鳴っているようだった。


 足元に落ちた本を拾うことすら忘れ、エナは弾かれたように周囲を見回した。


「それ、どこで!? ルシアンはどこにいるの!」


 気づけば、近くにいた生徒の肩を力任せに掴んでいた。

 突然の気迫に、相手が言葉を詰まらせる。


「あ、あっちの……第一実技演習場だよ」


 震える指先が示された瞬間、思考よりも先に身体が動いていた。

 廊下を蹴る音が、心臓の早鐘と重なって、耳元でうるさいほどに響く。


(嘘、嘘、嘘だ!)


 呼吸の仕方を忘れたように息が浅くなり、視界の端がぐらぐらと歪む。喉の奥からせり上がってくる嗚咽を無理やり飲み込み、もつれそうになる両足を必死に前へ前へと繰り出した。


 窓の外では強い風が吹き荒れ、ガタガタと窓枠を激しく揺らしている。滲み出した冷や汗が風にさらわれ、急激に身体の熱を奪っていった。


(いやだ)


 雪の日の、ルシアンのあの拒絶するような視線が脳裏に焼き付いている。

 彼に遠ざけられていることは分かっている。エナじゃ駄目だと思い知らされたばかりだ。けれど、だから何だと言うのだろう。嫌われていようが、婚約者がいようが、知ったことではない。ルシアンが万に一つでも死んでしまうかもしれないなら、そんなものは些末な問題でしかなかった。


(絶対に助ける。助けてみせる)


 向かいから来る生徒にぶつからないよう、避けて、躱して、ただ目的地だけを見据える。一段飛ばしで階段を駆け下りる足元が、一度だけ危うくもつれた。


(神様、お願い……間に合って……っ!)


 焦りに背を押されるように祈りながら、演習場へとひた走る。



 だってルシアンは、私の──



 胸の奥底で必死に蓋をして隠していた感情が、熱を帯びて溢れ出していく。ルシアンが誰の隣にいても、エナをどう思っていても、この想いだけは嘘じゃない。



 私の──大好きな人だから



 風のように廊下を駆け抜けながら、エナの体は焦燥で熱く燃えていた。だが、その指先だけは恐怖のせいで芯から冷え切っていた。

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