【60】その背中の向こう〈5〉
「……カリム?」
ルシアンは呆然と声を漏らした。
「やっほー、邪魔するぜ」
にんまりと笑って、カリムは迷いなく部屋の中へ踏み込んできた。石鹸の清涼な香りを漂わせ、緩く結った黒髪は少し湿り気を帯びている。あまりにもリラックスしたカリムの佇まいに、空気が一気に弛緩した。
「俺に聞きたいことあるかなーって思って来たんだけど」
カリムはルシアンの頬に残る乾いた涙の跡を見ると、呆れたように、眉を下げて笑った。
「ったく、予想通り拗らせてんなぁ」
カリムは部屋を見回すと、まるで自分の寮の部屋にいるかのように、躊躇なくルシアンの正面にある椅子を引いて座った。
(なんで、ここに……)
カリムがルシアンの研究室にやってきたのは初めてだった。
隣の部屋なのだから、わざわざここまで来る必要などない。用があるなら部屋に呼べばいいはずだ。それなのにこっちへ来たということは、ルシアンが部屋に戻るのを待てないほど、あるいは部屋には戻らないと踏んでのことだろう。
ルシアン自身も、カリムには聞きたいことが山ほどあった。
(エナとはどういう関係なんだ? なぜ二人が一緒に食堂から出てきた?)
けれど、言葉が喉の奥でつかえて出てこない。それを察してか、カリムがおどけたように首をすくめた。
「あー……外、寒かった。ルシアン、何かあったかいもん飲ませてよ。お前の淹れる茶は絶品だって、あの子も言ってたしさ」
間延びした声とは裏腹に、猫のような金色の瞳は、はっきりとルシアンを捉えている。
「……紅茶でいいか」
「うん」
湯を沸かす間、ルシアンの正面に座ったカリムが、手持ち無沙汰に髪を弄っている。ルシアンは茶葉を量りながら、必死に胸のざわつきを抑え込んだ。
(エナは、元気そうだったか? 僕がいなくても、平気そうだったか? ……僕のこと、何か言ってなかったか?)
問いただす権利などない。それでも、彼女に関することは知りたくてたまらなかった。
ルシアンは無意識に、棚から淡い色合いのティーカップを手に取っていた。それは、いつもエナがこの部屋に来た時に好んで使っていたものだ。
自分でも驚くほど自然に、彼女の残像を求めてしまったことに、胸の奥がじりりと痛む。
淹れたての紅茶を置くと、カリムは「さんきゅ」と短く応えた。カップを両手で包み込み、まずはその暖かさを楽しむように目を細める。
立ち上る紅茶の香りが、部屋の張り詰めた空気を少しだけ和らげた。向かいの席に腰を下ろしたルシアンは、手元のカップに視線を落としたまま、ぽつりと口を開いた。
「……彼女は元気そうだったか」
「まあ、元気には見えなかったな」
あっさり返された言葉に、ルシアンの顔色が変わる。
「お前を見て隠れてたし、泣きそうになってたし」
事もなげに放たれた追撃が、ルシアンの胸にぐさぐさと容赦なく刺さった。
思わず視線を伏せる。胸を刺す罪悪感を振り払うように、ルシアンは口を開いた。
「そもそも、どういう関係なんだ」
「なにが」
「エナとお前の、関係だ」
「えー? 友だちだけど」
カリムはへらへらと笑いながら答える。
「それだけか?」
「それ以上だったらどうすんの?」
カリムは口元の笑みを引っ込めると、からかうような目をすっと細めた。
ルシアンは言葉に詰まった。言い返す権利がないことを、痛いほど自覚している。
沈黙したルシアンを見て、ようやく紅茶に口をつけたカリムは「あちち」と大げさに舌を出した。
「んーじゃあ、こっちが聞くけど」
トパーズのピアスを指先で触りながら、カリムが切り出した。
「ルシアンにとってエナちゃんは何なの?」
不意に核心を突かれ、ルシアンの肩がびくりと跳ねる。
……今までなら友人と答えていた。しかし、今の自分がそう言うにはそれはあまりに不実だ。
「よく、僕の研究室に出入りしていた……後輩だ」
「ふぅん。後輩、ねえ」
カリムはわざとらしく言葉を繰り返し、カップを置いてルシアンを覗き込んだ。
「後輩が自分を避けたくらいで、そんな顔するか?」
「……何が言いたい」
鋭く睨みつけたルシアンから、静かな怒りが漏れる。けれどカリムは涼しい顔で受け流した。
「べっつにー。見てりゃわかるから」
「エナから……何か聞いたのか?」
「いいや、なーんも」
カリムはにこにこと笑いながら、椅子の背もたれに体を預け、どこか遠くを見るような目をした。
「クローディアがいなくなってからのお前、ひどかったぞ。飯もろくに食わないし、眠れてないのも丸分かりでさ。でも、ここ半年くらいで顔色も良くなったし、笑う回数も増えて……俺、実はホッとしてたんだよね。ああ、やっと吹っ切れて前を向けたんだなって」
ルシアンは呻きたくなった。自分の気持ちは、胸の内に上手く隠せているものとばかり思っていたのだ。
(それほどまでに、わかりやすかったのか……?)
たまらず顔を覆う。無様さが露呈していた事実に目眩がした。
「でも違うんだな。吹っ切れたんじゃなくて、ただ次に好きな奴ができてただけだった」
「……っ、違う、僕は」
咄嗟に否定しようと口を開いたが、それ以上声が出ない。自分の中にある彼女への恋情をすでに認めてしまっている以上、ここで否定するのはただの嘘になってしまう。
(──もし、エナにまでこの見苦しい気持ちがバレていたとしたら)
だとしたら、距離を置いた意味が無くなってしまう。
「まあ、落ち着けって」
混乱するルシアンに、カリムが淡々と言い放つ。
「あ、勘違いするなよ。エナちゃんを傷つけたのはお前だ。普通に最低だと思う」
「…………」
返す言葉もなく、ルシアンは深く項垂れた。
「それでも。お前が逃げた理由くらい、俺は知ってる」
予想外の言葉に、ルシアンは弾かれたように顔を上げた。カリムはいつものふざけた態度を消し去り、その金色の瞳で真っ直ぐにルシアンを射抜いた。
「だから、今度は逃げるな。──勝手に離れて、勝手に傷ついて、勝手に諦めんな」
厳しい言葉の直後、カリムは鼻の頭を掻いて、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「……俺としては、まあ? ルシアンが一番心配なわけよ」
カリムはスティックシュガーを無造作に引きちぎると、ルシアンの鼻先をビシッと指差す。
「だから……いい加減、自分の気持ちに素直になって、エナちゃんに謝ってこいよ。そんで、さっさと仲直りしろ」
そんな簡単な話じゃない。
「今さら会わせる顔がない」
嫌われているに決まっている。許されないかもしれない。
次々と押し寄せる不安に、ルシアンの表情が強張る。臆病風に吹かれる親友を見て、カリムは呆れたように大きなため息をついた。
「それでも行け。それだけのことしたんだから、思いっきり振られてこい」
びしっと言い切ったカリムの潔い視線に、ルシアンはふっと息を吐き出し、張り詰めていたものがほどけたように力なく笑った。
(……まったく、かなわないな)
情けなくて、申し分なくて。けれど、泥沼のような自己嫌悪に沈む自分を力強く引き上げ、繋ぎ止めてくれる親友の存在が、今は何よりも温かく、嬉しかった。
「……ああ。わかっている。ありがとう、カリム」
カリムは返事もせず、残っていた紅茶を一気飲みすると立ち上がった。そしてルシアンの首に乱暴に腕を回して肩を組むと、その頭にローブのフードをがばっと被せた。
「今日は遅いから、さっさと寝ろ」
視界を塞がれながらも、ルシアンは親友の不器用で温かい優しさに背中を押され、明日必ず彼女と向き合う覚悟を静かに固めた。




