【59】その背中の向こう〈4〉
ぼんやりとしながら、ルシアンが無意識のうちに向かったのは、以前は毎日通っていた研究室だった。エナを遠ざけるようになってから、すっかり足が遠のいていた場所。
重い扉を開けた瞬間、微かなラベンダーの香りが鼻腔をくすぐった。
それは、エナが「疲れが取れるから」と笑って持ち込んだドライフラワーの香りだった。
(……今まで、気にしたこともなかったのに)
あんなに毎日この部屋にいた時は、当たり前すぎて意識さえしなかった。いなくなって初めて、この香りが部屋の隅々にまで染み付いていたことに気づく。まるで彼女の存在そのものが、自分の日常の一部になっていたと思い知らされるようで、胸の奥がキリリと痛んだ。
──会いたい。会って、話がしたい。
けれど、エナの所属クラス何も知らない自分が、一体どんな顔をして彼女の前に立てるというのか。
後悔が澱のように胃の底に溜まっていく。同時に、彼女を見つけられなかったことに、どこかで安堵している臆病な自分もいた。
向き合うのが、怖い。拒絶されるのが、恐ろしい。
(ああ、くそっ……)
それなのに、なぜ涙が出てくるんだ。
ルシアンは机に突っ伏し、両手で顔を覆った。けれど、指の隙間からこぼれ落ちる熱い滴を止めることはできなかった。
遠ざけたのは自分だ。突き放したのは自分だ。僕に涙を流す権利など、一滴だって残っていないはずなのに。
距離を置かなければならないと、そう自分に言い聞かせてきた。
かつて、人生のどん底にいたルシアンを救ってくれたのは、クローディア・シルヴェールだったから。
(……彼女が、僕のすべてだったんだ)
制御不能な魔力を持って生まれたルシアンにとって、最も孤独だったのは幼少期だった。
『ははうえ……』
『いや、やめて。来ないで、化け物!』
魔力が暴走した瞬間に向けられた母たちの視線は、我が子を案じるものではなく、忌まわしい化け物を拒絶するものだった。
あの震える声と眼差しが、ルシアンの消えないトラウマとなった。
二度とあんな目で見られたくない。
その一心で血の滲むような修練を重ね、完璧に魔力を制御する術を身につけ、学園に入学した。けれど、優等生として完璧に振る舞えば振る舞うほど、人との距離は広がっていくばかりだった。
そんな暗闇の中に、クローディアだけが踏み込んできた。
『あなたの光魔法、まるで星みたいに綺麗ね!』
誰もが恐れたルシアンの力を、彼女は美しいと笑って肯定した。
(彼女が、僕の心を救ってくれた)
その言葉に救われ、同時に呪いのように深く、ルシアンの心に刻まれた。以来、ルシアンの世界は彼女を中心に回り始めた。彼女の期待に応えることだけが、自分の存在意義だと信じて疑わなかったのだ。
けれど、今の自分はどうだ。
好きだと告げてくるエナの軽やかな好意を、以前のように受け流せる自信が、もうどこにもない。
(クローディアを裏切って、僕は彼女を求めている)
そう自覚した瞬間、自分の中のクローディアへの忠誠が音を立てて崩れるのがわかった。離れれば忘れられると思った。なのに現実は、離れる前よりも彼女の幻を追う頻度が増していくばかりだ。
(……あんな顔を、させるつもりじゃなかった)
さっき、すれ違い前にカリムの背後から覗いたエナの顔が、脳裏に焼き付いて離れない。ルシアンと目が合った瞬間、彼女は伏し目がちに視線を逸らし、以前のような明朗な笑みを一切消してしまった。あの悲痛な横顔が、心に深く突き刺さっている。
彼女を無視してしまったのは、隣にレイチェルがいたからという体面を気にしたわけでも、カリムの背に隠れていたからというわけでもない。もし、レイチェルに二人の関係を追及されたら、自分でも説明のつかないこの感情をどう取り繕えばいいのか、わからなかった。
エナと過ごす時間は、純粋に楽しかった。ちょっとしたやり取りで心が跳ね、嬉しくなる。けれどその感情が膨らむほど、過去の自分を繋ぎ止めていたクローディアへの罪悪感が首をもたげる。
(僕はクローディアに、申し訳ないと思ったんだ)
ルシアンは頭を掻きむしった。完璧に整えていたはずの金髪が、無様に顔にかかる。
──いや、違う。
(僕はただ、怖かったんだ)
期待して、それが外れて。また化け物と突き放されて、傷つくのが怖かった。自分を護るための卑怯な言い訳を積み重ねて、彼女を──エナを、冷たい廊下で一人にさせた。
深く、重いため息を吐き出した。その時だった。
──ギィ
重い扉が音を立てて開く。
ルシアンの心臓が、跳ねるように脈打った。
(……エナ!?)
もしかして、彼女が来てくれたのか。そんな身勝手な期待を抱き、弾かれたように顔を上げる。
しかし、そこに立っていたのは、期待していた小柄な少女ではなかった。
「……よっ」
立っていたのは、部屋着の上に無造作にローブを羽織ったカリムだった。




