【58】その背中の向こう〈3〉
「カリム様の隣にいらっしゃった方、可愛らしい人でしたね」
「ああ……」
レイチェルをエスコートして歩きながら、ルシアンはかろうじて生返事を返した。
隣を歩く彼女の鈴を転がすような声も、今はひどく遠く、空虚に響く。ルシアンの意識は完全に、数分前の渡り廊下に置き去りにされていた。
(なぜ、カリムと一緒に歩いていたんだ)
ルシアンの脳裏に、カリムの隣で微笑むエナの姿がフラッシュバックする。随分仲良さそうに、楽しげに話していた。ルシアンの前で見せていたのと同じ、いつも通りの飾らないエナだった。
いったい何を話していたんだ。いつからそんなに親しかったのだろうか。
ぐるぐると巡る思考の果てに、ルシアンはギリッと奥歯を噛み締めた。
(どうして、カリムなんだ)
カリムの背に隠れるエナを見て、明確に避けられたという事実にルシアンは深く傷ついていた。
カリムのローブの裾をぎゅっと掴んでいた、彼女のあの小さな手がひどく頭に残って離れない。
あの時、エナはカリムを見上げていた。ルシアンには決して向けようとしない、庇護を求めるような、縋るような無防備な視線。自分だけが知っていると思っていた彼女のそんな顔を、いとも容易く親友に奪い去られたような焦燥感が、胸の奥をどろどろとした熱で焼き尽くしていく。
(僕にはもう、あんな顔を向けてはくれないのに……)
どす黒い感情が胸を渦巻いた直後、ルシアンはふっと冷や水を浴びせられたように我に返った。
違う。彼女からの信用を失うような振る舞いをしたのは他でもない自分だ。カリムに嫉妬するなど、お門違いにもほどがある。
(自分から彼女を遠ざけておきながら、他人が近づくのは我慢ならないのか)
そんな自分のエゴの醜さに、ルシアンは内心でひどい吐き気を覚えた。
(傷つけたのは僕だ)
彼女を守る資格も、隣で笑い合う権利も自らの手で捨てたはずだった。それなのに、カリムの背に隠れる彼女を見た瞬間、その肩を自分の腕に抱き寄せて隠したいと、衝動的に願ってしまったのだ。
すれ違ったあと、ルシアンは絶対に振り返るなと自分に言い聞かせていた。だが本心では、彼女が自分を呼び止めて、振り返ってくれることを願っていた。
足音だけが遠ざかっていくのに耐えきれず、たまらず背後を振り返ったが、そこにエナの視線はなかった。代わりに、エナを覗き込んでいたカリムとばちと目が合った。
親友の鋭い金色の瞳は、射抜くように、明確にルシアンを責めていた。
(わかっている)
彼女をどれほど傷つけ、不安にさせているか。自分の不器用さがどれだけ彼女をすり減らしているか。
わかっているんだ、とルシアンは胸の中で苦く呟いた。
◾︎◾︎◾︎
やがて、遅れてやって来たアルベールにレイチェルを引き渡した瞬間、ルシアンは弾かれたように踵を返した。
礼儀正しい歩調をかなぐり捨て、彼女がいた渡り廊下へと、なかば駆け出すように急ぐ。もし教授に見つかれば、廊下を走ったことで確実に叱責されるだろう。だが今は優等生としての体面も周囲の目も、どうでもよかった。
ただ、一刻も早くエナに会いたかった。
渡り廊下に戻ると、そこには食堂から帰る生徒たちで溢れかえっていた。
ざわめく人混みの合間を縫って、ルシアンは必死に、あの特徴的な銀髪を探す。
──エナ。
その名を呼べば、すぐに彼女がひょっこり現れるような気がしていた。けれど、この広い学園で、特定の生徒を一人探し出すのがこれほど困難だとは思いもしなかった。
通りがかった、エナと同じぐらいの身長の女子生徒に、ルシアンは意を決して声をかけた。
「すまない。……エナ、という女子生徒を探しているんだが」
「エナ様、ですか? ええと、学年やクラスは……?」
「…………」
ルシアンは絶句した。
毎日研究室で会い、くだらない雑談をし、彼女に助けられたあの日からずっと一緒にいた。それなのに、彼女がどの学年でどこのクラスに所属しているのか。そんな、学生として当たり前に知っているはずの情報を、自分は一つも知らなかった。
(……僕は、彼女の何を見ていたんだ)
自分の心の平穏を守ることに必死で、ただの都合のいい寂しさを埋める相手として、彼女を消費していただけではないか。
自身の底知れない傲慢さが、冷たい刃となって背筋を駆け抜ける。
「……いや、いいんだ。すまなかった」
困惑する生徒を後に残し、ルシアンはふらふらと廊下を歩き出した。
自分はいったい、何をしているんだ。
(僕は──エナに会って、どうしたいんだ)
深い絶望と自己嫌悪が、ルシアンの胸にずんと重くのしかかった。




