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【57】その背中の向こう〈2〉

「いや、アルベールが先生に呼ばれて。僕はメルディア嬢のエスコートを代わっているだけだ」

「あー……あいつクソ真面目だもんね」


 うふふ、とメルディアが頬を染めて微笑む。


「そこが可愛らしいところですわ」


 渡り廊下に、ころころと鈴を転がすような笑い声が響いた。

 やがて、好奇心に満ちた視線が、カリムの背後に隠れたエナを捉える。カリムがその視線に気づき、エナの肩をトントンと叩いた。


(……え、なに?)


 耳を塞いでいた手を外して、エナはおそるおそる顔を上げる。


「カリム様、そちらの女性は……? もしかして、婚約者候補の方ですの??」


(現役王子様の婚約者候補──!?)


 恐れ多いどころの話ではない。エナは、ルシアンからは見えないというのに、ぷるぷると勢いよく首を横に振った。というか、よりによってルシアンの目の前でそんな爆弾発言をしないでほしかった。


 令嬢の嬉々とした無邪気な問いかけに、カリムはエナにだけ見える位置で、グッと親指を立ててみせた。


(兄貴ぃ……! 信じてるよ、私のこと、けちょんけちょんに言っていいから、全力で否定して!!)


 その頼もしさに、エナは縋るような思いでカリムのローブの裾をぎゅっと握りしめた。


「おっと、そう見えちゃう? どうしよっか……エーナちゃん?」


(ちょっと──!!)


 任せとけって言ったのに、否定するどころか思いっきり名前を出しまくっている。

 カリムの顔を見上げれば、そこには極上の、そして最高に胡散臭い笑みが浮かんでいた。


(黒蛇みたいだと思ったけど、違う。今は二つの尻尾が見える……! 悪い黒猫だ、この人!!)


 カリムはわざとらしくエナの耳元に顔を寄せると、内緒話でもするように声を潜めた。けれど、その視線は明らかにルシアンの反応を窺っている。


「少しだけ、ルシアンに仕返ししときたいでしょ?」


 カリムの茶目っ気たっぷりの囁きに、エナははっと目を丸くした。

 喧嘩した話を聞いてくれたカリム。今のエナの沈んだ気持ちを察して、わざと共犯者になって空気を変えようとしてくれているのだ。そんな彼の粋な気遣いが、今のエナには嬉しかった。

 

(優しいし、顔良いし、リアル王子様だし……カリムは絶対モテるだろうな)


 エナが尊敬のこもったキラキラとした瞳でカリムを見上げた、その時だった。


「メルディア嬢。……行きましょう。風が冷えます」


 静かに促すようなルシアンの声が耳に届いた。エナはびくりと肩を震わせ、さらに身を縮ませる。令嬢は「あら、残念」と小さく肩をすくめて優雅に笑った。


「では、失礼いたしますわ」

「ん。またね〜」


 カリムの肩越しに、ふわりと小さく靡く金髪が見えた。

 エナは、無意識に息を止めていた。ルシアンの紫水晶の瞳はメルディア嬢だけを見つめていて、エナとは一度も視線が交差することなく、ただの他人のように距離が離れていく。


 すれ違いざま、見慣れたはずのルシアンの後ろ姿が、どうしようもなく遠く感じた。ルシアンは、確実にエナに気づいていたはずだ。けれど、彼は一度も視線をこちらへ向けなかった。

 コツコツという規則正しい靴音だけが、やけに大きく廊下に響き渡る。


(待ってって……)


 呼び止めて、何かを言えばよかったのかもしれない。けれど、喉までせり上がってきた言葉は、形を成す前に飲み込まれて消えた。

 背中越しに、二人の足音が遠ざかっていく。その音が完全に聞こえなくなった時、エナは目頭が熱くなるのを堪えきれなかった。


「……エナ、大丈夫?」


 身を屈んで覗き込んできたカリムに、エナはにこりと笑ってみせる。


「うん、大丈夫。さっきはありがとうね」

「いや……」


 カリムは困ったように眉を下げ、そっとエスコートの腕を差し出した。


「聖女棟まで送ってくよ」


 しかしエナは、ゆっくりと首を横に振った。今、誰かの優しさに触れて一緒にいたら、せき止めているものが決壊してしまう。


「ここから遠いから大丈夫だよ。これもずっと持っていてくれて、ありがとう」


 できるだけ明るい声を作って、カリムが持ってくれていたマフラーと魔法瓶を受け取る。


(ずっと持たせていて、申し訳なかったな)


「あのさ」


 カリムは何かを言いかけ、けれど、エナの瞳の揺れを見て「そっか」と短く呟いた。


「じゃあ、また」

「うん! 今日はありがとう。またね」


 小さく手を振ったあと、エナはくるっと背を向け、一目散に駆け出した。

 カリムから見えない角を曲がった位置まで来ると、足がもつれて転びそうになっても、無理やり起き上がってまた走った。


(──あれは、泣く。絶対に、泣いちゃう)


 なんだかんだ喧嘩しても、自分は一番ルシアンに近い場所にいると、どこかで信じていたのだ。


 以前、廊下で彼が令嬢たちに囲まれているのを見かけたことがあった。その時も悲しかったけど、まだマシだった。

 紳士として理由もなく淑女に恥をかかせてはいけないと厳格に教育されている彼は、誰に対しても決して邪険な態度は取らないと知っていたから。


 だからこそ、彼の隣を歩くことも、他愛ない軽口を叩くことも、友人である自分だけに許された特権なのだと、傲慢にも信じ込んでいたのだ。


 けれど、今日の彼は違った。

 

(ああ、駄目だ。考えるな、考えるな……!)


 一歩、二歩と地面を蹴るたびに、視界がぐにゃりとぼやけていく。

 必死に堪えていた涙が、一筋、また一筋と溢れ、冷たい石畳の上に暗いシミを点々と作っていった。

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