【56】その背中の向こう〈1〉
「今日も、美味かったー」
カリムが目を細めて、満足げに笑う。
「うん。ビーフシチュー、すごく美味しかった!」
濃厚な味を思い出して、エナはにこにこと笑い返した。
二人で夜の静かな渡り廊下を歩く。カリムとの食事は、エナにとって想像以上に楽しい時間だった。彼の母国の話や、小さな頃の破天荒なエピソード。まだまだこの学園とその周辺のことしか知らないエナにとって、海を越えた未知の国の話はどれも新鮮でわくわくするものばかりだった。
「そういえば、聖女科の子たちって食堂利用しないよね」
「昔からそういう伝統?みたい。それに私はともかく、友だちは顔バレしちゃってるから……」
「あー、囲まれちゃうんだ?」
「そうらしいよ。カリム王子は大丈夫なの?」
「うん。カリム王子は友人といる時は話しかけてくる人少ないから平気なんですー」
エナのからかいをさらりと受け流しながら笑うカリムの横顔は、王子としての重責など微塵も感じさせないほど屈託がない。
「だから、一緒に食べてくれてありがとうね」
「こちらこそ。人の多い時間の食堂なんて初めて行ったから、新鮮だったよ」
たくさん並んでいたテーブルと椅子が、ほとんど生徒で埋め尽くされていた活気ある光景を思い返す。
エナは、先ほど彼が美味しそうにデザートを頬張っていた姿を思い出し、ふと口を開いた。
「カリムはゼリー好きなんだね」
「うん。アル=サハルには無くてさぁ。美味しくて好き〜」
(好き〜って……子どもっぽくて可愛いな)
デザートのオレンジゼリーが、次々とカリムの胃の中に消えていった光景を思い出す。
(いつもリリアとセラフィナと食べてたからわかんなかったけど……男の子って、本当によく食べるんだなぁ)
そんな他愛もないことを考え、ふと視線を前に向けた。
──その時だった。
「……あっ」
エナは目を見開いて、ピタリと立ち止まった。
「ん? どしたん??」
カリムが不思議そうに覗き込んでくるが、エナは返事すらできなかった。
前方から歩いてくる人影──ルシアンと、その隣で寄り添う見知らぬ令嬢の姿を認めた瞬間、エナの全身は金縛りにあったように固まってしまったのだ。
(え、隣の人、誰……?)
楽しかった余韻が、一瞬にして凍りついていく。
エナの視線を辿ったカリムは、「あぁ……」と短く声を漏らした。
カリムの声に反応したのか、向こうから歩いてくるルシアンがふとこちらへ顔を向けた。
その表情を確認するよりも早く、エナはぐるんとカリムの背後へと身を隠した。
(最っ悪だ……)
避けられているはずなのに、どうしてこんな時に限って遭遇してしまうのだろう。
混乱するエナを自らの体で覆い隠すように、カリムが腕を少し広げて一歩前に出てくれた。
「大丈夫。俺に任しといて」
背中越しに、カリムの低い囁きが聞こえた。青ざめた顔で震えるエナを安心させるように、振り返った彼は、励ますようにぱちんとウインクして見せた。
(今日初めて会ったのに、兄貴って呼びたい……!)
百八十センチを超えるカリムの体躯は、今のエナにとってこの上なく頼りになる壁になってくれた。
「よ、ルシアン。それに、メルディア嬢」
カリムがひょいと明るく声をかける。エナは彼の背中から、恐る恐る視線を向けた。
一瞬見えたその光景に、胸がぎゅっと締め付けられる。そこには、金髪の美少女と親密そうに腕を組んで歩くルシアンの姿があった。
「ごきげんよう、カリム様」
隙間から覗いたメルディア嬢──と呼ばれた美少女は、ため息が出るほど綺麗な人だった。透き通るような白い肌に、手入れされたプラチナブロンドの髪。自信と余裕に満ちたその佇まいは、今の自分とは対照的すぎて、惨めさが足元から這い上がってくる。
(……なんで、よりによって今なの)
視界がちかちかと熱を帯び、喉の奥が震える。
彼の幸せのために、近づかない、会わないと決心したのに。よりにもよってルシアンが他の女の子をエスコートしている姿なんて、一番見たくなかった。
「二人で食べるの?」
カリムの無邪気な問いに、エナの心臓がズキンと音を立てる。
(嫌だ。聞きたくない!)
あんなに麗しい令嬢と、ルシアンが自分の知らないところで新しい関係を築き始めている。その残酷な事実を、他でもない彼自身の口から肯定されるのだけは耐えられなかった。
もし「そうだ」なんて肯定されたら、自分が必死に守ってきた“友人”というささやかな特権すら、粉々に砕け散ってしまうような気がして──エナは逃げるように、耳をぎゅっと塞いだ。
──だから、エナには聞こえていなかった。




