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【53】黄玉の瞳の男〈2〉

(私の方が年上のはずなのに、なんだか先輩って感じがする人だな)


 目の前の彼には、到底今のエナが追いつけないような余裕があった。その不思議と拒絶を感じさせない空気にほだされて、頭の中をぐるぐると回っていた言葉が、ぽつりとこぼれ落ちていた。


「……友だちから、避けられてて」

「うん」

「理由を聞いても、教えてくれないんです。私が何かしたのか聞いても、僕の問題だって言われて──」

「ふむふむ」


 彼は完全に聞き手に回り、エナのとりとめのない独白に、深い相槌を打ちながら耳を傾けてくれた。


「──みたいな感じで、今どうすればいいのか分からなくて」


「うーん。話を聞いてる限り、その友だち、意味わからんね」


 呆れたように笑う彼につられて、エナは小さく苦笑する。


「超不器用な人だって、わかってるんですけど……。距離を置きたいなんて言われちゃうと、もう、私にできることなんて何もないんですよね」


 へらりと笑いながら口に出してみると、決して動かせない現実に改めて打ちのめされた気分になった。


 エナはコップに残った冷えたミルクティーをぐいっと飲み干し、喉を焼くような感傷をどうにかやり過ごした。膝に置いた方の手が、無意識にマフラーの端をぎゅっと握りしめていた。


「……で、君はどうしたいの? その自分勝手な“お友達”に対して」


 飄々とした軽い口調に反して、青年の金色の瞳は射抜くようにエナをじっと見つめていた。

 エナは伏せていた睫毛をわずかに揺らす。


「んー……彼が嫌がることはしたくない、かな」

「それじゃ、君だけがすり減っちゃうんじゃない?」


 エナは「うううん」と唸って、抱えたコップに顔を寄せた。


(散々考えたけど、ルシアンに対する私の意思は、変わらない)


 ──ルシアンを、幸せにする。


 もし、ルシアンの幸せがエナと距離を置くことなら、潔く身を引こう。胸の奥がキリキリ痛むけれど、ルシアンを幸せにするという初志貫徹の目標だけは絶対に曲げたくない。


(彼のファンとしての私と、友だちとしての私の気持ちが、頭の中で大喧嘩してるけれど)


「私から近づいたり、話しかけたりはしない。それが、彼の望みだから。……でも、やっぱり同じくらい腹が立ってるっていうのも本音なんです」


 エナは自嘲気味にふふっと力なく笑つと、少しだけ潤んだ瞳を隠すように、あえてはっきりとした口調で言い切った。


「だから、これはもう意地なんです」


「……そっかー」


 青年はニヤリと悪戯っぽく笑うと、座ったままエナの瞳を覗き込んだ。


「君、その彼のこと、めちゃくちゃ好きでしょ」

「なっ……な、なんで!?」

「そりゃわかるよ。今、すっごく()()()()()()()の顔してたもん」


 にまにまと楽しそうに笑う男に、エナは顔を真っ赤にして叫んだ。


「ただの友だちです! ほんと全然……好きじゃ、ありませんから!」


 勢いよく言い返したものの、語尾だけが少し震えてしまう。エナは慌てて視線を泳がせ、逃げるようにマフラーの厚い生地に顔を埋めた。


(嫌われてるのに……まだ好きなんて、ほんとに大馬鹿野郎だ)


 青年はそんなエナを急かすこともなく、優しい目をして見つめていた。夕陽を弾くトパーズのピアスが、彼の金色の瞳と混ざり合って、ひどく綺麗に光っている。


 彼はふっと表情を緩めると、エナの頭を軽く小突くような、絶妙に砕けた距離感で身を乗り出してきた。


「……じゃあさ、いっそ俺にしとかない?」


 青年が艶やかな笑みを浮かべ、エナの手を軽く取った。指先に触れた彼の指輪が、ひんやりと冷たい。


 黒蛇のような男だ、とエナは思った。しなやかで、どこか危うくて、でも目が離せなくなるような不思議な引力がある。


「俺は、女の子を泣かせたりしないよ」


 長い指がエナの指先に触れ、流れるようにキスを落とす。その完璧すぎる口説きの動作に、エナは一瞬だけ目を丸くした。けれど次の瞬間には、あははと軽く笑い飛ばした。


「ふふ。お誘いは光栄ですけど、遠慮しておきます。私、これでも一途なので」

「ありゃ、残念。振られちゃった」


 彼はなぜか嬉しそうにくしゃりと笑うと、降参したように両手を上げ、ぱちんと軽快にウインクをしてみせた。

 残りのミルクティーを最後の一口まで飲み干すと、空になったコップの縁を指で弄びながら、ふっと真面目な顔に戻って空を見上げる。

 先ほどまでの飄々とした空気は影を潜め、どこか遠くを案じるような目をして、掠れた声で笑った。

 

「俺さぁ、ここ何ヶ月かのあいつがあんなに余裕をなくしてるの、初めて見たんだよね。……見てるこっちが痛々しくなるくらい、あいつ、必死に空回りしちゃってさ」


(……あいつ? 余裕がない?)


 エナの頭の中に、いくつもの疑問符が飛び交う。


 そんなエナの様子を見て、彼はあはは、と喉の奥で可笑しそうに笑った。それからすぐに真剣な声音に切り替わり、静かに告げた。




「ルシアンを、許してやってくれよ」




 不意に投げられた名前に、エナの鼓動が跳ねた。



「なんで、その名前……」


 抱え込んでいた魔法瓶が、カタ、と小さな音を立てる。動揺が指先から伝わってしまったのだろう。深く抱え込んで、エナは目を見開き、金色の瞳をまじまじと見つめ返した。

 なぜ、今ここで彼の名前が出るのか──その驚きを隠す余裕すら、今のエナにはなかった。


「あいつ、完璧超人でプライド高いし、実はめちゃくちゃ子供っぽいんだけど……悪い奴じゃないんだよね」


 彼が何を言っているのか、すぐには意味が掴めなかった。ただ、それがルシアンの本来の性格を熟知している者特有の言葉だということはわかる。


「……ルシアンとは、どんな関係なの?」


 薄々勘づきながら、問う。


「寮の部屋が隣でね。……まぁ、親友だと思ってるよ」


 本人には内緒な、と言って彼は眩しそうに目を細めた。けれど、自分で言ったことが少し照れくさくなったのか、困ったように鼻先を擦る。


 その仕草を見て、エナは悟った。この人は、ルシアンの不器用さも、取り繕ったプライドの裏側にある情けないところも全部知っていて、独りよがりな彼のフォローをしにわざわざここへ来てくれたのだ。

 出会った時から感じていた、エナを観察し、探るような視線。それもすべては友人を案じてのことだったのだろう。


(そうか……ルシアンには、こんな親友がいたんだ)


 ドクン、と心臓が嫌な跳ね方をした。

 エナが知っているルシアンは、ほんの一部でしかない。目の前のこの人は、エナの知らないルシアンの時間を、温度を、当たり前のように共有している。


 元の漫画では、ルシアンの友人なんて描かれたことは一度もなかった。

 エナは彼を、ただのキャラクターではなくこの世界の住人として見つめていたつもりだった。けれど、根底のどこかで漫画の知識がある自分が、ルシアンのことを一番よく知っているという驕りが抜けきっていなかったのだ。そんな傲慢な自分に気づき、静かに失望する。


 自分の胸の中にある、彼の一番の理解者という居場所が、ほんの少しだけ削り取られて形を変えたような錯覚を覚えた。

 けれど──それ以上に、不器用な彼に寄り添ってくれる存在がいることが、エナには純粋に嬉しかった。


「ルシアンの傍にいてくれて、ありがとう」


 はにかみながら、エナは確信を持って微笑んだ。その真っ直ぐな言葉に、青年は不意を突かれたように少しだけ驚いた顔をした。先ほどまで彼から感じていた探るような気配が完全に消え去り、エナの心も少しだけすっと軽くなる。


(ルシアンの傍には、この人がいてくれる。私よりもずっと近くに……)


 そして、また一つ。静かな諦めが胸に落ちてくる。


(ああ、やっぱり私は必要ないんだろうな)


 吹き抜ける冷たい風が、二人の間に降りた複雑な沈黙を攫っていく。


 その空気を察したのか、青年は「おっと、もうこんな時間か」と呟き、上着のポケットから懐中時計を取り出した。パチン、と心地よい金属音を立てて蓋を閉じる。


「君も降りる?」


 彼は茶目っ気たっぷりに片方の眉を上げ、優しく微笑んでエナの返事を待った。エナは小さく、こくりと頷いた。



 その動作一つ一つが、悔しいくらいに絵になる男だった。



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