【52】黄玉の瞳の男〈1〉
(つめたっ.....)
思わず身濃いして、マフラーを鼻先まで埋める。賑わい返った学園の喧騒を逃れ、エナが辿り着いたのは時計塔の展望台だった。
ヴェルン王立魔法学園の中央にそびえ立つこの時計塔は、学園のシンボルである。授業や休憩など、全ての時間は鐘の音で管理されている。漫画のタイトルにも組み込まれており、印象的なシーンでは必ず描かれていた場所だ。だからこそ、エナにとってここは、どこか特別な意味を持つ聖域のように感じられていた。
エナは手袋をはめた手で魔法瓶を抱え込み、コップにたっぷりのミルクティーを注いだ。立ち上る白い蒸気は、一瞬で風にさらわれて消えていく。ローブに縫い付けられた温度調節の魔法陣がじんわりと熱を帯びているため、冷気に晒された頬以外はかろうじて温かかった。
石造りの展望台は四方が吹き抜けになっていて風通しがいい。吹き込んでくる冬の空気は刃物のように鋭く、肺の奥まで凍てつかせた。ミルクティーひとくち飲むと、胃の腑にじんわりと熱が広がった。
見上げる空は、濃いインディゴブルーから淡い藤色へと移ろうグラデーションを描いている。遠くに目を向ければ、水平線の向こうで海がぼんやりとした濃紫に沈み、空と海の境界線は曖昧な青灰色に溶け合っていた。
(……綺麗だな。綺麗すぎて、なんだか泣きたくなる)
何も考えたくなくて、ぼうっと空を見る。
エナは時々ここへやって来ては、ぼんやりと空と海の境界線を眺めていた。
何も考えたくないのに、いつも考えて、悩んで、喜んで、悲しんで。ぐるぐると回る思考は決して止まってはくれない。考えすぎて身動きが取れなくなりそうな時、ここにやって来ては、冷たい風を浴びて無理やり頭を空っぽにするのだ。
時計塔から眼下を見下ろすと、この世界は本当に美しいと思う。精緻なゴシック建築の校舎、広々とした敷地、歴史を感じさせる街並み。
優しくしてくれる人々がいて、不自由のない生活がある。この世界を生きていく術があるということ。その心地よさに甘えて、ずっと目を逸らしてきたことがあった。
(私は、元の世界に帰る努力を何もしていない)
もし帰れないと突きつけられたら、自分を保てなくなるのが怖かった。だから、この世界に居場所があるようなフリをして、自分を騙し続けてきたのだ。
(ずっと不安で、怖くて、途方に暮れているのに)
あえて考えないようにしているから、漠然とした不安がずっと胸の奥に巣食っている。ルシアンにかまけて目を背けている間は、平気なフリができる。でも、一人になると途端に駄目になる。
エナはぎゅっと手袋の指先を握りしめ、冷たい空気を深く肺に吸い込んだ。空と海が混じり合うこの景色を見ていると、自分がこの世界に溶け込めない異物であることを再確認させられる。
「……ここは、私の居場所じゃないのにね」
ぽつりと零した独り言が、冬の風にさらわれて消えた。
(居場所を得られたと思った自分が恥ずかしい)
痛いほどの自己嫌悪が押し寄せ、エナは冷めかけたミルクティーをひとくち飲んだ。空になったコップを魔法瓶に戻すと、石壁に肘をつき、組んだ腕に深く顔を伏せる。
「はあ……」
重い、重いため息がこぼれた。
「ありゃ、先客がいたかー」
背後から、ぬっと高い影が差した。
驚いて振り向くと、そこにはエキゾチックで彫りの深い顔立ちをした青年が立っていた。肩まである黒髪をハーフアップにまとめ、耳元のトパーズのピアスが夕闇に煌めいている。
どこかで見覚えがあるような気がして、エナは瞬きを繰り返した。鋭いが温かみを帯びた金色の瞳が、至近距離でエナの瞳の奥をじっと覗き込んでくる。
「どしたの?」
「……え?」
「だって君、泣いてるじゃん」
指摘され頬に手をやると、指先が濡れていた。自分でも気づかないうちに、涙が溢れていたらしい。
「えっ……あれ、なんでだろー。風が目にしみたのかなぁ」
とぼけながら、ローブの袖で乱暴に目尻を拭う。
(うわ、最悪……。知らない人に泣き顔見られちゃった。恥ずかしい……)
目の前の青年がしゃがみ込んでハンカチを差し出してきたが、エナはぶんぶんと首を振った。
「大丈夫です。持ってるので」
親切はありがたかった。それでも、どこの誰とも知らない男性に対して、無条件に心を開けるほどエナは無垢でも無防備でもない。
ポケットから取り出したくしゃくしゃのハンカチで、メイクの崩れも気にせずゴシゴシと頬を拭いた。そして、無理やり笑顔を作ってみせる。
「ありがとうございます。優しいんですね」
気遣いへの礼を示すように、にこりと笑みを浮かべる。そんなエナを、青年は何を考えているのかわからない表情でじっと見つめていた。
(なんだろうこの人……じろじろ見てきて)
じりりと警戒心が跳ね上がるが、ふと彼の視線が自分ではなく、手元の魔法瓶に注がれていることに気がついた。
「ねえ、お兄さんにもそのミルクティー、おすそ分けしてくれない?」
目をぱちくりさせたエナは、ふっと頬を緩めた。
(なんだ、ミルクティー目当てだったのか)
「あはは! もちろんいいですよ」
予備の蓋をコップ代わりにし、温かいミルクティーを注ぎ入れる。再び立ち上った蒸気が、一瞬だけ二人の視界を白く遮った。
「どうぞ。熱いので気をつけてください」
青年はそれを受け取ると、洗練された動作で一口飲み、「あー、生き返るわあ」と大げさに息を吐いた。
(この人、やっぱり貴族の人だな)
陽気で飄々とした言動とは裏腹に、カップを受け取る手つきや飲む仕草が、息を呑むほど洗練されていて美しいのだ。その無駄のない優雅な所作は、どうしてもルシアンの姿と重なってしまう。
ズキン、と胸の奥が痛んだ。
(ルシアンのこと、考えないようにしてたのに)
俯き加減になったエナの耳に、ふと穏やかな声が落ちてきた。
「泣くほどつらいことがあったんだろ?」
はっと目を見開いて顔を上げると、青年はふっと目を細め、いたずらっぽく微笑んでいた。
「ここで会ったのも何かの縁だし、お兄さんに話してみなよ」
すとん、と胸の奥に落ちてくるような声だった。
覗き込んでくる金色の瞳が、埃の溜まった暗い部屋を換気するように、エナの心に新しい風を吹き込んでいく。
「悩みは溜め込むと毒になるよ?」
にこにことした笑顔で、ひどく優しい眼差しだった。




