【51】好きになりたくない〈3〉
危険な魔法生物からの防衛、敵対する魔法使いへの防御、さらには悪質な呪いへの対処──。身を守るための、しかし一歩間違えれば怪我では済まない危険を伴う防御魔法の実技演習。
その帰り道、ルシアンの足取りはいつになく重かった。
(頭が痛い……)
ルシアンはこめかみを指先で強く押さえ、低く、重い吐息をこぼした。視界の端がチカチカと脈打ち、鉛のような倦怠感が全身にまとわりついている。
「珍しく、ルシアンが失敗してたな」
カリムが、どこか面白がるようにニヤニヤと肩を並べてくる。
「うるさい」
「おいおい、そんなに睨むなよ。あの完璧なベルクレア様も人の子なんだって、安心しただけ」
「……余計なお世話だ」
「顔色が悪いが、また寝れなくなったのか?」
アルベールが真面目な顔で覗き込んできた。その純粋な心配が、今のルシアンには少しだけ痛い。カリムみたいに茶化してくれる方がどんなにいいか。
「平気だ。寝る前は魔法を使っている。そのために、研究したからね」
不眠症にひどく苦しんだ時期がある。だからこそ、自らのために『強制的に眠る魔法』を作り上げた。それ自体は完璧に成功しているはずだった。
「あはは!」
不意に、高く弾けるような笑い声が聞こえた。
ルシアンは心臓を跳ねさせ、反射的に立ち止まって振り返る。
(……エナ?)
けれど、そこにいたのは見知らぬ女子生徒だった。
跳ね上がった心臓が、急速に冷え切っていく。一瞬でも彼女に期待していた自分に気づかされ、胸の奥がひどく惨めで、空っぽな感覚に襲われた。
(何をしてるんだ、僕は)
呆然と立ち尽くしていた自分を叱咤し、先に歩いていた二人の背中を追って、少し急ぎ足で歩調を合わせる。
長い廊下の窓には、夕闇が静かに降りてきていた。ぼんやりと暗くなり始めた空を見上げる。
この前、図書室で彼女を見た。エナは本を持っていた。そして、去り際。
(……振り返って、僕を見ていた)
その光景を思い出すだけで、胸の奥からどろりとした歓喜が湧き上がる。背を向ける直前、彼女の瞳が揺れて光った気がした。声をかけそうになって、けれど結局、視線を逸らしてしまった。
揺れる髪。翻るローブの裾。守りたくなるような、あの華奢な背中。
最初は、ただの仲の良い友人になりたいと思っていた。ただ笑って欲しかった。
けれど、今はもう、そんな綺麗な感情だけじゃ片付けられない。
これまで守ってきた理性が、積み上げてきた大事な過去の思い出が、彼女という存在によってすべて崩れ去りそうになる。それが、ルシアンにはどうしようもなく恐ろしかった。
(……妙に、体がだるいな)
思考の渦に呑み込まれるほど、手足に鉛を流し込まれたように歩みが重くなっていく。一歩進むたびに床が遠のくような感覚に襲われながら、自室の前に着く頃には、精神的な疲労がピークに達していた。
「そんじゃあ、夕食の時に」
隣を歩いていたカリムの言葉に、ルシアンは視線を落としたまま、短く首を横に振った。
「あー……すまない。食欲がないんだ。二人で行ってきてくれ」
「やっぱり体調悪いんだろう? 大丈夫か?」
心配そうに顔を曇らせるアルベールの真っ直ぐな視線が痛い。「大丈夫だ」とだけ返し、貼り付けたような笑みで無理やり口角を上げた。
そんなルシアンの横顔を、カリムの金色の瞳がじっと射抜くように見つめていた。すべてを見透かしているような眼差しだった。けれどカリムは何も言わず、ただ面白くなさそうに視線を外した。
バタン、と自室の扉を閉め、靴を脱ぐ間も惜しんでベッドに倒れ込む。
(……疲れた)
魔法で強制的に眠っているはずなのに、ここ最近、妙に体がだるい。久々の集団行動に疲れたのか、研究ばかりで体力が落ちたのか。それとも、魔法では補えない何かが磨り減っているのか。
本当はその原因が何なのか、自分でもとっくに気づいている。ただ、そのわかりきっている答えを見ないふりをして、ルシアンはそっと目を閉じた。
視界を塞ぐと、今度は聴覚が妙に冴え渡っていく。だからこそ、いつもは気にならない窓のきしむ音が、ひどく耳障りに響いた。
窓がガタガタと鳴り出した。リーヴェルの冬は厳しい。海から吹きっさらしの潮風が、びゅうびゅうと恐ろしい音を立てて建物を叩く。
瞼を閉じても、エナの残像が、必死にかき消そうとするほど鮮明に浮かび上がる。
『あはは!』
エナはいつも楽しそうに明るく笑っていた。なのに、あの日図書室で見かけた彼女の顔は、ひどく暗く沈んでいた。当然だ。彼女をそんな顔にさせてしまったのは、他でもない、この自分なのだから。
胸から込み上げる何かで目頭が熱くなった。深く瞼を閉じる。
あの時、目が合ったあとに、もう二度と振り返らずに去ってしまったエナの冷たさに、自覚のないまま胸を深く傷つけられていた。すれ違ったあと、ドアのガラス越しに映った自分のあまりにも酷い表情を見た時、自分はいったい何をしているのだろうと、果てしない自己嫌悪が押し寄せた。
あの日、静かな廊下に響いた乾いた音が耳から離れない。
自分の手を払い除けられ、愕然とした彼女の顔。赤くなった手の甲を見つめる、あのひどく傷ついた瞳。少し怯えたようにルシアンを見上げた、あの顔。
ルシアンは耐えきれず、目元を遮るように額へ腕を押し当てた。奥歯を噛み締めれば、声にならない呻きが熱を持って喉の奥で震える。
(頭を空っぽにするんだ)
耳の奥では、彼女の明るい笑い声が幻聴のように幾度も反響する。逃げ場のない焦燥を逃がすように、冷たいシーツを指先が白くなるほど強く握りしめた。
強制的に意識を断つための眠りの魔法を編み上げる。だが、制御を失った魔力は指先からバチッ、と不快な火花を散らして霧散した。
明らかに魔法の精度が落ちている。
(これ以上……君を、好きになりたくないんだ)
外で荒れ狂う風の音に急かされるように、ルシアンは深く、深く瞼を閉じた。
もう考えまい。彼女のことは。




