【50】好きになりたくない〈2〉
(あらら、妖精にまで嫌われちゃったかな)
エナは小さく溜息をつき、見渡す限り並ぶ膨大な書架を見上げた。高い天井へと続く棚には、インクと乾燥した紙の匂いが染み付いている。
背表紙の金文字に目を走らせながら、ゆっくり歩いていると、ふとある一冊の前で足が止まった。
『上級空間転移魔術論』
空間を飛び越えて、一瞬で別の場所に移動する魔法。この国でも使える人はごくわずかだと講義で聞いたことがある。
気がついたらこの世界に放り出されていた自分。
(もしかしたら私がこの世界に来たのも……この魔法の一種なのかもしれない)
ルシアンに拒絶され、彼に近づく権利さえ失いかけている今。この見知らぬ世界に自分を繋ぎ止めていたはずの、唯一の心の拠り所が音を立てて崩れ去ろうとしていた。ルシアンを失えば、自分はこの世界にいる意味さえ見出せない。
(もし……、ここに私の居場所がないのなら。私は、どこへ帰ればいいんだろう)
脆いメンタルを引きずったまま、エナはぽつりと胸中で溢した。
切なさに押し潰されそうになりながら、少し背伸びをしてその本に指をかける。けれど、不器用な指先は本の端を掠めただけで、目的の魔導書はさらに棚の奥へと押し込まれてしまった。
(届かない。妖精みたいに飛べたら、楽、なのに!)
諦めきれずに何度かその場でピョンピョンとジャンプしてみたけど届かない。その時だった。真横からスッと伸びてきた腕が簡単に目的の本を抜き取った。
「この本、だろう?」
驚いて見上げると、銀縁眼鏡の奥で、知的な緑の瞳が細められていた。
「はい、どうぞ」
「あ……はい! ありがとうございます」
「高位魔法の魔導書なんて、勉強熱心だね」
「え?」
ドキリと、心臓が変な音を立てた。まるで自分が異世界から転移してきたことを見透かされたような気がして、エナは慌てて手元に視線を落とす。しかし、差し出された本をパラパラと捲ってみても、そこに並んでいるのは見たこともない複雑な数式や、奇怪な魔法陣の羅列ばかりだった。
(うわ、全然わかんない)
「ああー……間違えました。この本は、私にはまだ早すぎたみたいです」
へらりと笑って言うと、眼鏡の青年はエナの手から本をひょいと受け取って、元の場所へ戻してくれた。
「せっかく取ってもらったのに、すみません」
「いいよ、気にしないで」
彼は落ち着いた様子で、少しだけ口角を上げた。物腰が柔らかく、なんだか不思議と安心する雰囲気の人だ。
「空間転移魔法には、興味があるんだよね?」
「……はい。何から手をつけていいか、全然わからなくて」
すると彼は一つ下の段に指をかけ、別の薄い冊子を差し出してくれた。
「ならこっちの方がお勧めだよ。ストーリー形式で、初心者向けに書かれている。僕も昔、これで基礎を学んだんだ」
『空間転移魔法の基礎・初級編』
受け取ってぺらぺらと捲ってみる。
(あ、これなら私でも読めそう……)
挿絵の多さに少しだけ安堵して、エナは小さく笑った。
「わざわざありがとうございます。手間取らせてしまって」
「いいんだ。ちょうど、友人を待っていただけだから」
少し厳しそうな風貌に反して、その声はどこまでも穏やかだった。
(いい人だなあ)
張り詰めていた心がほぐれ、ほっと胸を撫で下ろした、その時だった。図書室の入り口の方から、さざなみのような喧騒がこちらに近づいてくるのが聞こえた。
「──ですよね」
「──の方は、はいかがですか?」
複数の、高揚した女子生徒たちの華やかな声だ。
「ああ……」
眼鏡の青年から苦笑の吐息が漏れる。
なんだろうと女の子の声がする方に視線を向けた瞬間、エナは息を呑んだ。女子生徒たちの華やかな輪の中心に、薄く笑みを浮かべたルシアンが取り囲まれていたのだ。
心臓が大きく跳ねる。エナは咄嗟に、抱えていた冊子で自分の顔を隠すようにして身を縮めた。
あの雪の日、彼にハンカチを投げつけた記憶が火傷のような熱を持って脳裏に蘇る。会いたくない。今はまだ、彼の顔を見るための心の処理が終わっていない。
「あの、これ、借りてみます! では!」
慌てて眼鏡の青年に一礼すると、エナは逃げるように貸し出しカウンターへ駆け込んだ。早口で手続きを済ませ、ルシアンたちとは反対側の出口へと必死に足を向ける。
(嫌だ、会いたくない。バレたくない。またあの冷たい目で見られるなんて耐えられない!)
けれど、背後から追いかけてくる彼の声に、ゆっくりとエナの足は止まってしまった。
「ベルクレア様、またお勉強ですの? 本当に勉強熱心ですこと」
「いつも授業にいらっしゃらないから、私たち寂しいです」
「普段は、どのような研究をなさっているのですか?」
「今度学会で発表する予定だ。研究関連はその時に。その際は、ぜひ君たちも足を運んでくれ」
耳に馴染みすぎたあの心地よい低音。どうしても無視することができず、エナは柱の影からそっと彼を振り返ってしまった。
女子生徒たちに囲まれたルシアンは、わずかに口角を上げ、ひどく柔らかく微笑んでいた。
「街に新しく可愛いカフェができたんです。もしよろしければ、この後──」
「ちょっと、あなた何言ってるの! それよりベルクレア様、図書室の中もご一緒してもよろしいかしら?」
黄色い声を上げる彼女たちを、ルシアンは優しく宥めるように見つめている。──その時、ルシアンの視線がふっと泳ぎ、柱の陰から振り向き見つめていたエナの瞳と、真っ正面からバッチリと交わった。
エナは息を止めた。けれど次の瞬間、ルシアンは何の感情も乗せないまま、まるでただの石ころでも見るかのように、すっと不自然に視線を逸らした。
ズキン、と胸の奥が激しく痛んだ。
「残念だが、先約があるんだ。また今度」
有無を言わさない口調でありながら、ルシアンの対応はどこまでも丁寧で紳士的だった。この前、特別棟でエナに向けたあの冷たい拒絶とは、あまりにも違いすぎていた。
(……ああ)
胸の奥が、雑巾を絞るようにぎゅっと詰まる。
(私には、距離を置きたいなんて冷たく言ったのに。他の女の子たちには、あんな風に、今まで通りの優しい顔を見せるんだ……)
自分だけが特別な拒絶の対象なのだと突きつけられて、鼻の奥がツンと熱くなる。エナは溢れそうになる涙を堪えるように、強く抱えた本の角に指を食い込ませた。
(私は今、好きな人に唯一嫌われた惨めな女なのに)
それに比べて、彼の周りで楽しそうに笑う女の子たちは、どれほど幸せだろう。
一度でいいから、あの輪の中に混ざれたら。もう一度だけ、あの優しい微笑みを私に向けてもらえたら。
世界中で、彼に群がるあの女の子たちが、一番羨ましかった。
エナは引き裂かれそうな胸を抑え、一度も振り返らず今度こそその場を抜け出した。




