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【5】手を伸ばした先の、君へ〈2〉

「……やめろ」


 自身の意志を無理やり絞り出したような、低く重い響き。


 骨が軋むほどの力で、手首を掴み取られた。


 はっとして視線を落とすと、ルシアンが眉間に深く皺を寄せ、掴んでいない方の手では自身のこめかみを押さえていた。


「僕は、平気だ。……人を呼ぶ必要はない」


 目を閉じたまま、苦しそうに眉根を寄せている。


 どう見ても平気なわけがない。


 呼吸は浅く、額には冷たい汗が滲んでいる。瞼の下には、眠れていない人特有の濃い影が落ちていた。

 それでも彼は、無理に体を起こそうとして、エナの手首をギリギリと掴む。


(……どうして、そこまでして)


 ふと、漫画の中の“彼”が脳裏をよぎる。

 ルシアンは生まれ持った魔力量の多さを恐れられ、孤独を余儀なくされていた。初めて、その力を恐れずに接してくれたのが、ヒロインのクローディアだったはずだ。


 けれど、目の前のルシアンは、エナが知っているどの場面の彼ともかけ離れていた。髪は短く、顔色は悪く、そして何より、今の彼は救いようがないほどに孤独に見えた。


(物語の、どのあたりなの……? 彼はもう、彼女に振られた後なの? それとも、漫画とは流れが違うの?)


 わからない。時間の流れも、ここがいつの場面なのかも。

 けれど、ひとつだけ確かなことがある。今、この瞬間、エナの腕の中にいる彼は、世界で一番ボロボロだということだ。


(……このまま、放っておけるわけない!)


 他人の手を借りれば、また誰かを傷つけるかもしれない。そんな幼少期からの怯えが、今の彼に「人を呼ぶな」と言わせているのだとしたら。


「……わかりました」


 エナはゆっくりと息を吐き、腕の中にいるルシアンを見た。


「人を呼んだりしません。だから、無理に起き上がろうとしないでください」


 そう告げると、手首を締めつけていた力が、少しずつ緩んでいった。

 すぐ傍にある、彼の弱々しい体温。それを意識した途端、視界がじわりと滲んだ。


(帰りたい。怖い。でも、この世界に頼れる人は誰もいない)


 エナの視界に薄く涙の膜が張る。瞬きをするたび、ぽろりと雫が零れ、拭うべきかわからず、エナはそのまま瞬きを繰り返した。


 その涙が、ルシアンの手の甲にでも落ちたのだろうか。金色の睫毛が痙攣するように震え、ゆっくりと瞼が持ち上がった。


 澄んだ紫水晶の瞳が、エナを捉える。


 その瞬間、彼の頬にほんのりと赤みが差した。


「……っ」


 さっきまで死人のように青白かった顔が、見る間に熱を帯びていく。


(ああ、そうだ。熱があるんだった……! 水? 薬? 人を呼ばないって約束したけど、どうすればいいんだろう!?)


 あわあわと挙動不審になるエナを前に、ルシアンの視線がわずかに揺れた。不意を突かれたような顔をしながらも、彼は逸らすことなく、じっとこちらを見つめ返している。


 やがて、躊躇うように伸びてきた指先が、エナの(まなじり)に滲んだ涙をそっと掬い取った。


「っ……!」


 何か言わなきゃと思うのに、唇が小さく震えるばかりで声にならない。


 火照った頬に、どこか艶を帯びた表情。至近距離で浴びせられる最推しの生々しい引力に、エナの心臓は今日一番の音を立てた。

 意識のすべてが、ルシアンという存在に塗りつぶされていく。


「……君は?」


 低く、掠れた声が鼓膜を震わせる。


(ルシアンには、クローディアがいる。本当なら、私はここにいるべきじゃない……)


 けれど、今この場にいるルシアンにはエナしかいないのだ。

 凍りついていたエナの思考が、激しい音を立てて動き出した。


「……は、はじめまして!」


 声が震えないよう、精一杯の勇気を振り絞って明るく笑ってみせる。胸の内はぐちゃぐちゃなのに、それを悟られないように必死に虚勢を張った。


「えっと……私は、エナと言います! 庶民なので家名はなくて、それで、その──」


 言葉を続けようとして、ふと息が詰まった。


 目の前にいるのは、優しさゆえに孤独を選び、幸せから距離を取るように生きてきた、エナの最推しだ。


 幸せになってほしい。


 ずっと、世界の向こうでそう願っていた。けれど、今は違う。


 今の瑛那(エナ)には、ルシアンの幸せを願うこと以外に、この絶望的な異世界を生き抜くための理由が見当たらない。


(ルシアンを幸せにする。それだけ考えていれば、他のことは考えなくていい)


 エナはゆっくりと顔を上げ、正面からルシアンの瞳を見つめ返した。



「……あなたに、一目惚れしました!」



 静まり返った研究室に、エナの通る声が響く。


(──間違えたぁぁぁ!)


 幸せにする、と誓うはずだった。それなのに、あまりの至近距離に脳が麻痺したのか。それとも、ヒロインではない自分が彼に踏み込むための免罪符が欲しかったのか。


 顔面が火を噴きそうなほど熱くなり、目眩がする。口を滑らせたのは、もう、どうしようもなく不可避の事故だったのだ。そう仕方がないのだ。だが、一度放った言葉は取り消せない。


 エナは咄嗟に、自分の手首を掴んだままだったルシアンの手を、両手で包み込んだ。

 指先から伝わる彼の体温は、驚くほど低い。


 ルシアンは、ぴしっと石像のように固まったまま、信じられないものを見る目でエナ凝視している。



「……私が、必ずあなたを幸せにします!」



 その手を、祈るように強く握りしめる。ルシアンは、完全に言葉を失っていた。


「……はあ?」


 間の抜けた声が、ルシアンの唇からこぼれ落ちる。


 ルシアンの指先が、わずかに震えた。その、かつて見たことがないほど面食らった顔を見て、エナは曖昧に笑った。いきなりこんなことを言われたら、誰だって困るだろう。ましてや相手は、名門貴族の跡取り息子なのだから。


 それでも、エナにとってルシアンは、次期侯爵である前に、最推しである。


「君は何を、言って……」


 状況が読み込めず、呆然としたままのルシアンを見つめながら、エナは必死に自分に言い聞かせる。


 ──ルシアン・ベルクレアを、必ず幸せにする。


 ヒロインに、成り代わりたいわけじゃない。ただ、この人のことだけ考えていれば、他のことは考えなくていい。



 もう、何も考えたくなかった。

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