【4】手を伸ばした先の、君へ〈1〉
(でも……あれ? なんだか、雰囲気が違う……?)
狂喜の渦が引いた後、ひやりとした違和感が遅れてエナの背中を伝った。胸の高鳴りとは質の違う、ざらりとした感覚。
頭の奥に、小さな疑問符が浮かぶ。
漫画の中のルシアンは、腰まで届く長い髪を緩く結っていて、色白ながらもどこか柔らかな、不器用そうに微笑む青年だったはずだ。
けれど、目の前の彼は違う。
髪は短く切りそろえられ、頬からは生気が失われている。それに、焦点の合わない瞳は虚ろで、まるで別人のようだった。
視線を逸らしたいのに、逸らせない。
今の彼からは、エナの知るルシアンとは決定的に違う何かが抜け落ちているように見えた。
(……何かあったのだろうか)
ビジュアルがこれほど違うなら、少なくともエナが知る物語の最中ではないのだろう。
エナが自問自答するように思考を巡らせていた、その時。ガタッ、と硬い物音が静寂を切り裂いた。
我に返ったエナが隙間から覗き込むと、ルシアンが棚の方へふらふらと歩き出していた。
けれど二、三歩進んだところで、その足元が嘘のようにぐらりと揺れる。
「……っ!」
倒れる──そう思った瞬間、思考より先に体が動いていた。
「ルシアン!」
なりふり構わず腕を伸ばし、その体を抱き止める。
近づいた拍子に、ふわりと甘く落ち着いたホワイトムスクの香りが鼻先を掠めた。
「うわっ……!」
想像を遥かに超える、ずしりとした重みが腕にのしかかる。華奢に見えたその体躯を支えきれず、エナはルシアンを抱えたまま、床へと崩れ落ちるように座り込んでしまった。
「だ、大丈夫ですか!?」
必死に呼びかけても、返事はない。ルシアンはきつく瞼を閉じ、苦しげに眉根を寄せていた。長い睫毛の影が、白磁のような頬に暗く落ちている。
(……この後、どうしよう)
エナが狼狽えながらその顔を覗き込んだとき、不意に、熱に浮かされた虚ろな瞳がぼんやりと彼女を捉えた。
「……っ、あの──」
声をかけようとしたエナの唇が、小さくわなないて噤まれた。いつの間にか息を止めて彼を見ていた。
苦しそうに歪んでいたルシアンの表情が、みるみるうちに解れていく。そして、まるで救いを見つけたかのように、彼はひどく嬉しそうに笑った。
「っ、ぁぁ……クロー、ディア」
掠れたその声は、湿り気を失った喉の奥でひび割れ、ひゅう、と切なく震える。
「……行って、しまったと……思ったのに」
力なく伸ばされた指先が空を切り、エナの頬に微かに触れる。氷のように冷たい指先とは裏腹に、そこから漏れる吐息は、焼けるように熱かった。
(クローディア──ヒロインの名前だ)
ルシアンがこれほどまでに壊れそうな声で呼ぶ相手は、世界にただ一人しかいない。
「……ルシー、って……呼んで。……行かないで、くれ……」
その声には必死に何かを求めるような、痛々しいほどの熱情が宿っていた。
ルシアンはそのまま、縋るようにエナの服の端をくしゃりと掴む。
もう一度呼びかけたが、彼の唇はそれきり動かなくなってしまった。ただ、大切な何かを失うのを恐れる子どものように、掴んだ指にだけは驚くほどの力が籠もっていた。
(……この人、本当にヒロインのことが好きなんだ)
自分が見てきた設定としての好意ではない。指先から伝わる骨ばった感触、耳元で繰り返される、今にも止まりそうな細い呼吸。そして、抱きかかえた肩から伝わる、ずしりとした確かな重み。
(……あ。この人、生きてる)
キャラクターじゃない。
彼は温度があって、重さがあって、今まさに必死に息をしている、血の通った一人の人間だ。
その事実を突きつけられた瞬間、エナの指先から熱が引いていく。腕の中にある重みが、急に恐ろしいほど重く感じられた。
腕の中で、彼の胸が浅く、ひどく速い周期で上下している。それを見て、ようやく布越しに伝わる体温の異様な熱さに気づいた。
「誰か、人を呼ばないとっ……!」
真っ青になったエナが反射的に声を張り上げようとした、その時。
「……やめろ」
服を掴んでいたはずのルシアンの手が、エナの腕を強く制した。




