【3】転移〈2〉
(夏服にこの風は、さすがにキツいな……)
薄い夏服を通り抜ける秋風が、剥き出しの肌を容赦なく刺していく。エナは震える身を抱きしめるように腕を回し、肩をすくめて歩みを速めた。
身を縮めるようにしてしばらく進むと、校舎群がその全貌を現した。視界を圧倒する、荘厳なゴシック様式の建築。
月光に照らされた石壁はところどころが煤けて変色し、漫画の誌面越しでは見えなかった長い歴史を感じさせる。特にそびえ立つ時計塔は、凝った装飾が遠目からでも分かった。
一瞬、観光に来たみたいだ、なんて思う。それほどに見どころのある建築物だった。
エナは重厚な時計塔から視線を逸らすと、その奥に位置する東棟の方をじっと見据えた。
(もし、ここが本当に漫画の世界だとしたら)
記憶が正しければ、最推しのルシアンがよく居たのは、東棟のさらに先にある特別棟の彼の研究室だ。
はた、とエナの足が止まる。
(今が物語のどの時点なのかはわからない。けれど……)
ここは、あの『ヴェルン王立魔法学園』なのだ。もしかしたら、本当に彼があの部屋にいる可能性だってある。
「……行ってみよう!」
足裏から伝わる石畳の冷たさも忘れ、エナは誘われるように行き先を変えた。
(もし……もし本当に彼が、そこにいるのなら)
この悪夢のような状況にも、何か意味があると思えるかもしれない。その縋るような思いが、エナの足を突き動かした。
東棟の輪郭を視界の端に追いやりながら、乱れる呼吸が、静まり返った学園内にひどく場違いに響く。
(でも見に行って、会いに行ったとして、どうするの? そもそも、こんな真夜中に誰かがいるはずもないのに……)
冷静さが戻るにつれ、先ほどまでの勢いが嘘のように足取りが重くなっていく。
駆け出していた足は、いつしか力ない歩みへと変わっていた。
(……戻ろう)
エナが諦めて踵を返そうとした、その時だった。
ふと視界の端に捉えたのは、特別棟の端の一室から漏れ出す、微かな明かりだった。
「……っ」
もつれそうになる膝ががくんと折れ、エナは反射的に近くの木へ手を突いた。掌に伝わる樹皮のざらついた感触が、それが夢ではないことを告げている。
視線だけがその光に吸い寄せられ、どうしても離せない。
(だれか、いる)
はやる気持ちを抑え、エナは再び夜闇の中を駆け出した。
◾︎◾︎◾︎
特別棟へ滑り込むと、それまで体温を奪っていた夜風が遮られ、建物の奥に潜んでいた微かな温もりが肌を包んだ。代わりに鼻腔をくすぐったのは、インクと古い紙が混ざり合った匂い。
しんと静まり返った廊下には、数は少ないが、一つひとつが大きな重厚な扉が整然と並んでいた。
(明かりがついていたのは、上の階の一番端の部屋だったはず……)
エナは記憶の中にある描写をなぞりながら、一段ずつ階段を上る。ここは選ばれた生徒の研究室が集まる棟だ。
(こんな真夜中まで残っているなんて、真面目な人がいて本当に助かった……)
上りきった先でふと視界を捉えたのは、一室から漏れ出す細い光の筋だった。
(あの部屋だ……!)
導かれるように歩み寄り、扉の横にある重厚な木枠の名札に目を留める。
──Lucian Belclair
刻まれていたのは、ルシアンの名前だった。
心臓が暴力的なまでの鼓動を上げる。
(ここは、ルシアンの研究室だったんだ)
扉一枚隔てた向こう側に、ルシアンがいる。
ドクン、と耳の奥で音がした。僅かに開いた扉の隙間から溢れる光を頼りに、エナは息を殺して中を覗き込む。
そこに、彼はいた。
光を溶かしたような淡い金髪。筋の通った鼻梁と、影を落とすほど長い睫毛に縁取られた、アメジストのような紫の瞳。
白い指先で頁を押さえ、机に向かう横顔は、作り物みたいに整っていた。
「ルシアンだ……」
彼が頁を捲る指先の動き一つで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
最推しのルシアンが、今、目の前にいる。
息づいて、瞬いて、たしかに生きている。
それだけで視界がじんわりと熱くなり、エナは溢れそうなものを堪えるように、ぐっと唇を噛んだ。




