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【2】転移〈1〉

 金髪の男が、手持ち無沙汰に本のページを捲っていた時のことだ。ふと、窓の向こうで一瞬、何かが鋭く閃いたような気がした。


 虚ろな紫色の瞳が、吸い寄せられるように外へと向けられる。


 しかし、改めて目を凝らしてみても、そこにはただ、月明かりを浴びた時計塔が以前と変わらぬ姿で、静まり返った夜の中に佇んでいるだけだった。




 ◾︎◾︎◾︎




「…………は?」


 背中に伝わるひんやりとした硬い感触に、目を覚ましたエナは掠れた声を漏らした。


 真っ先に視界に飛び込んできたのは、吸い込まれそうなほど無数に瞬く星空。


(うそ……私、外で寝ちゃったの?)


 混乱する頭を抱え、エナは起き上がった。脈打つ心臓に急かされるように、混濁した意識の淵から必死に最後の記憶を手繰り寄せる。


 たしか……前期最後の試験が終わった解放感で、帰りの電車に揺られていたはずだ。そしてスマホの画面に釘付けになりながら、夢中で読んでいたのは──大好きな恋愛漫画『君と二人、時計塔の下で』の最終話。


 ヒロインの幸せを願い、独り静かに身を引いていった最推しのルシアン。その切なく気高い幕引きに、涙を堪えられなかった。


 そこまでは覚えている。その後、電車で寝てしまったのだとしても、どうして今こんな見知らぬ場所に倒れているのか、さっぱりわからなかった。


(酔っ払ってるわけでもないのに、外で寝るなんて……アホすぎて笑えない)


 目が暗闇に慣れ、はっきりとしてきた視界できょろりと辺りを見渡すと、周囲の異様さが浮き彫りになった。


 エナを囲んでいたのは、人の背丈ほどもある大輪の薔薇だった。色とりどりの花びらが、暗闇の中で白々と、どこか不気味なほどに幻想的に浮かび上がっている。


「……ここは、どこなの?」


 大学の近所に、こんな大規模な薔薇園なんてあっただろうか。


「うわ、寒っ……」


 不意に吹き抜けた風が、エナの薄いシャツを冷たく揺らした。咄嗟に自分の腕をさすり、肩をすくめる。

 季節は夏真っ盛りのはずなのに、肌に触れる空気は秋のそれだった。涼やかというより、うっすらと肌寒い。


「何が起きてるの……? どういうこと?」


 心臓が早鐘を打つ。


(とりあえず、誰か。誰か探さなきゃ。警察? それとも近くの交番?)


 財布もスマホも入ったバッグもない。大学生にもなって迷子だなんて、なんて説明すればいいんだろう。


 震える足で立ち上がり、何気なく顔を上げたエナは、その瞬間、全身の血管が凍りつくような感覚に襲われた。


「えっ、は……?」


 大きく見開いたエナの視線の先には、夜空へ突き刺さるように伸びる、無数の尖塔があった。その巨大な影が山のように重なり、威厳を持ってそびえ立っている。


 城と見紛うほどの壮麗な建築物──エナはそのシルエットに、強烈な見覚えがあった。


「まって、嘘でしょ……」


 ふらふらと、何かに吸い寄せられるように歩き出す。開けた広場に出た瞬間、肺の空気がすべて抜け落ちた。



「ヴェルン王立魔法学園……?」



 整えられた庭園の向こうにそびえ立っていたのは、石造りの巨大な校舎群と、天を突くほど鋭い時計塔だった。


(あの時計塔……!)


 脳裏をよぎったのは、エナが何度も読み返した漫画のことだ。



『君と二人、時計塔の下で』



 最推しの天才魔法使い・ルシアンと、孤独な王子・レオンハルト。二人の間で揺れる令嬢クローディアを描いた物語。その象徴として、常に背景の主役であり続けたのが、あの時計塔だった。


「……どういうこと? まだ夢を見てるの? ねえ、誰か……っ!」


 叫ぼうとした喉が、ひっくと詰まる。膝から崩れ落ちるようにへたり込んだ拍子に、視界の端でありえない色が揺れた。


(……え)


 おそるおそる、自分の長い髪を掴んで引き寄せる。そこにあったのは、染めたての茶髪ではなく、月明かりを冷たく反射する銀白の髪だった。


「なんで……なんで私の髪が、こんな色に……!?」


 慌てて自分の体を確認する。服も、見慣れたホクロの位置も、間違いなく自分自身のものだ。けれど、この髪だけは、まるで丁寧にブリーチを施したように変色していた。


 動揺に揺れる瞳が、広場の中央にある噴水を捉える。エナは縋るような思いで駆け寄ると、ごくりと唾を呑んで、静止した水面を覗き込んだ。


 そこに映っていたのは、見慣れたはずの自分の顔。──ただし、その瞳だけは、宝石を溶かし込んだような、ありえないほど澄んだ赤色に染まっていた。


 服もサンダルも元のエナのまま。なのに、髪と目の色だけ別人のように変わっている。


「あはは、はは……っ」


 喉の奥から、乾いた笑いが漏れる。噴水の縁を掴む指先に伝わる石の感触が、やけにリアルで、残酷だった。


(漫画の世界に入り込んだってこと?)


 いつもなら荒唐無稽と笑い飛ばす考えが、するりと頭に浮かんだ。


「私……帰れないの?」


 ひゅー、ひゅーと浅い呼吸が肺をひりつかせる。


(……帰れない? お父さんにも、お母さんも、弟にも……大学の友達も……二度と会えないってこと?)


 一度よぎった最悪の想像は、拒絶反応のようにエナの体を縛り上げた。帰省の約束も、楽しみにしていた夏休みの約束も、何気ない日常のすべてが、今この瞬間に断絶されたのだ。


「……考えちゃ、だめ」


 震える唇の隙間から、無理やり言葉を絞り出す。


「……ちゃ、だめ。考えちゃだめ、考えちゃだめ、考えちゃだめっ!」


 自分に言い聞かせるように、何十回と繰り返す。そうでもしなければ、今すぐこの場で発狂してしまいそうだった。


 浅く速くなろうとする呼吸を、意識して整える。深く吸って、ゆっくり吐き出す。何度も、何度も。


 一筋の涙が頬を伝い、芝生の上に吸い込まれていった。これからどうなるのかという底知れない不安を、呼吸と一緒に無理やり喉の奥に押し戻す。


(今すべきことを、考えなきゃ。ここで座り込んでいたら、きっと、心が朝まで持たない……)


 月はちょうどエナの真上にあった。まだまだ夜は長い。

 泣いても叫んでも、目の前の時計塔は消えてくれない。なら、動くしかない。


(とりあえず、明かりのある方へ……。誰か、保護してくれる人を探さなきゃ)


 立ち上がりながら、無意識に右手がポケットを探った。けれど、いつもそこにあるはずのスマホの感触はない。文明の利器という唯一の繋がりを断たれたことを悟り、指先が力なく止まる。


 エナは一度だけ、月明かりを遮る時計塔を呪うように見上げると、震える膝に力を込めて、暗闇の中をふらふらと歩き出した。

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