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【1】プロローグ

「おはようございます、ルシアン様!」


 すりガラスの向こうに人影が見えた。朝の陽射しを反射して、淡く輝く金色を捉えた瞬間、エナの口角は無意識に跳ね上がる。


 ——ギィ


 重厚な扉を押し開けると、静まり返った研究室に乾いた音が響いた。

 机に向かっていた彼が、気配を察して顔を上げる。こちらを見た瞬間、その整った眉がわずかに寄せられた。


 また来たのか、と言わんばかりの表情に自然と笑みが零れる。


「今日も信じられないくらいかっこいいですね。……好きですっ!」


 すい、と顔を背けた彼に、歓迎の色はない。けれど、追い返される気配もなかった。


 初めて会った日に勢いで告白してから、まだ数日だというのに、自分でも驚くほど図太いものだ。


 けれど、別にどうでもいい。冷たくされても心が折れない程度には、エナはもう開き直っていた。


「今日も、とてもいい天気ですね?」


 返事をねだるように顔を覗き込んだ拍子に、ふわりとホワイトムスクの香りが鼻腔をくすぐった。


 その香りは、元の世界で買った『公式グッズの香水』と同じ香りのはずなのに。瓶に詰められた冷たい液体よりもずっと柔らかく、深みが増していた。


 香りに意識をさらわれているうちに、銀色の長い髪が肩からするりと滑り落ちた。まだ見慣れない自分の髪を、指先でするりと背後へ払う。すると、髪の動きを追った彼の視線と、ばっちりと目が合った。


「…………おはよう」


 数秒の沈黙のあと、渋々と、絞り出すように返された挨拶。たったそれだけで、胸の奥がじんわりと満たされる。我ながら単純だと思いながら、エナは彼の向かいの椅子にすとんと腰を下ろした。


「んふふっ。おはようございます!」


 陽射しを受けて輝く金髪。長い睫毛に縁取られた、冷ややかな紫水晶(アメジスト)の瞳。

 無駄のない指先と、背筋の伸びた姿勢。視線ひとつで空気を支配してしまうほど、彼は美しく、洗練されている。



 この研究室の主──ルシアン・ベルクレア。



 彼は、エナが元の世界で繰り返し読んでいた恋愛漫画の“当て馬”である。


 家柄、容姿、才能、そのすべてを兼ね備えながら、エンディングまで一度も報われなかったキャラクター。それが目の前に座る、ルシアンだった。


 一目見た瞬間からその造形に惹かれ、彼が背負う深い孤独を知るごとに、気づけば“最推し”になっていた。


(今日も、本当にかっこいい……)


 その彼が今、スマホの画面越しではない距離にいる。まだ、夢を見ているようだった。


「朝からルシアン様の色気が強すぎて、直視できません……」


「……君がまだ、寝ぼけているだけだろう」


 取り合う気配もなく、淡々と一蹴される。


「えへへ。あいにく、昨夜はあまり眠れなかったもので」

「……結構なことだな」


 素っ気ない応対の最中、ルシアンの視線がふいと机の上に落ちた。エナではなく、自分自身の影を追うような眼差し。


 その瞳の下には、隠しきれない薄い隈が残っている。


「今日も、眠れなかったんですか?」


 ずい、と身を乗り出し、今度は真剣な声音で問いかける。ルシアンは答えず、逃れるように紙面に視線を落とした。


「ルシアン様……」


 沈黙がすべてを物語っていた。


 今日は休日だ。それでも、ルシアンは研究の手を止めない。彼の横には、無造作に積み上げられた魔導書の山がある。精神安定、魔力制御──どれも、彼の不眠を治すために関わるものばかりだ。


「……また、倒れてほしくないんだけどな」


 思わず零れた言葉に、ルシアンの肩がぴくりと跳ねた。一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を逸らす。


「あれは……油断していただけだ」


 淡々と言い切り、ルシアンはさらに冷たく言い添えた。



「……君が心配する必要はない」



 これ以上は踏み込むなという、明確な境界線が引かれる。


 それなのに──ルシアンの耳元は、嘘みたいに赤く染まっていた。


 冷たい言葉で拒絶しながらも、強引に距離を詰めるエナに、その体温だけは過敏に反応している。


(拒絶したいなら、どうして……そんなに可愛い顔をするの)


 胸がぎゅっと締めつけられる。


「可愛い……好き!」


「……っ、いい加減にしろ」


 思わず零れた言葉に、ルシアンははっとしたように眉を寄せた。咎めるようでいて、どこか途方に暮れたような響き。


 視線を合わせないまま、白魚のような指先が紙の端をぎゅっと歪めているのを見て、エナはそっと笑った。






 今のルシアンが凪いでいるからこそ、こうして笑っていられる。

 けれど、出会った瞬間の光景を思い出すと、今でも心臓が凍りつきそうになる。


 エナがルシアンと初めて会った日。彼は今の端正な姿からは想像もつかないほど、ひどく……ボロボロに傷ついていた。




 ——あの日、目が覚めたとき。


 エナはこの世界に、たった一人で放り出されていたのだ。






【エンディング後の世界で、君に逢えたということ】




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