【48】すれ違った温度のゆくえ〈4〉
「基本だけれど、大事なことよ。聖女の治癒の光は──自分自身を癒すことができない」
教授の声が、右から左に通り抜けていく。
「治癒の光は、術者の魔力を削って発動する力なの。言い換えれば、自分の力を相手に分け与えているようなもの」
窓から差し込む光に埃が舞う中、教授の静かな声が、がらんとした教室に響く。
「だから当然、使えば使うほど魔力は減る。配分を誤れば、術者が先に倒れるわ」
チョークが黒板に触れ、さらさらと式が書き込まれるのを、エナはぼんやりと見つめていた。ペン先が、微かに揺れる。
(ああああもう!)
ルシアンとの絶望的なまでの気まずさが、頭の中をぐるぐると駆け巡る。
あの日以来、彼がいる特別棟へは一度も足を向けていなかった。
ふとした瞬間に思い出すのは、冷たく伏せられた長い睫毛や、感情を消したようなあの表情ばかりだ。
果たして、ここから関係修復など可能なのだろうか。
いや、でもあれはルシアンが悪い。あんな風にいきなり突き放すような真似をされて、すんなり納得できるわけがない。
(まあ……それでも、私だって大人げなかったけど)
ルシアンが受け取れないとわかっていながら、感情に任せてハンカチを投げつけてしまった。ただ、大好きな人に拒絶されたことが、思ったよりもずっと辛くて、子供みたいに意地を張ってしまったのだ。
(あーあ、何してるんだろ)
胸の奥が、ちくりと痛む。
(私だって、中身はただの女の子だもん。そりゃあ、落ち込むことだってあるよね……)
ノートの余白に意味のない線を一本引きながら、ぐずぐずと後悔が胸を巡る。書いた文字をぼんやりと見つめ、エナは思考を掘り下げた。
試験前日の夜。あの時までは、ルシアンだって普通だったはずだ。ダンスの練習なんて頼んだから、嫌になってしまったのだろうか。それとも、何か他に嫌なことでもあったのだろうか。
(ルシアンにとっての嫌なことって……)
記憶を辿るうちに、ふと彼の複雑な実家の事情が頭をよぎる。
(もしかして、実家が決めた婚約者がいるとか……!?)
だから、これ以上エナと関わらないように、あえて遠ざけようとした? ありえる。今の状況を思えば、それが一番しっくりくる。
──それでも。
ルシアンのあの氷のような視線を思い出し、また波のように悲しみが押し寄せてきた。いくら事情があったとしても、そう言ってくれればよかったのに。あんな風に、問答無用で冷たく関係を断ち切らなくたっていいじゃないか。
近づいて、懐に入れてもらえて、その手があたたかいことなんて知ってしまったから、今、こんなにも辛い。
「治癒魔法は万能じゃないの」
黒板から振り返り、ガルシア先生は穏やかな声で続けた。
「どれだけ力があっても、魔力が尽きれば終わり。だから、力の使い方には、必ず余裕を残しなさい」
真面目に聞く振りをしながら、エナはひっそりと息を吐き出した。
ルシアンを幸せにする。そう決めて、この世界で生きてきた。けれど、自分がいなくても彼は、あんな風に完璧に、気高く生きていけるのだろう。
胸の奥が、じわりと重みを増す。
(あー、辛い)
放課の鐘が鳴るのと同時に、エナは机に突っ伏した。
(どうすればいいのか、わかんないよ)
ぐるぐると回る思考を止めたくて、エナは腕の中にさらに深く顔を埋める。昨夜は一睡もできなかったせいで、強烈な睡魔が泥のように這い上がってきた。
(もう、いいや……。少しだけ、寝ちゃおう……)
抗う気力もなく、エナはそのまま深い眠りへと落ちていった。
◾︎◾︎◾︎
目が覚めると、窓の外はすっかり暗くなっていた。
(お腹空いた)
空腹に急かされるように談話室へ向かうと、そこには完全に力尽きた様子の二人がいた。リリアとセラフィナがソファの背もたれに深く体を預け、魂が抜け出たような顔をしている。
「わっ……二人とも、大丈夫?」
「あ、エナ。いいところにぃ」
リリアが眉をハの字に下げ、机に広げられた無数の紙の中から二枚を引っ張り出して差し出してきた。
「ねえ右と左、どっちがいいと思う?」
そこには、繊細な筆致で描かれたドレスのデザイン画があった。最近、二人がマナーの復習やダンスの練習に追われて忙しそうだったたのを思い出す。
「それ、聖女任命式用のドレス?」
「そう〜。準備することが多くて、もう目が回りそうだわ」
今年学園を卒業する二人は、一生に一度の大事な国家儀式が待っている。
聖女任命式──王宮で執り行われ、魔法学園を卒業する聖女見習いたちが王の前で正式に聖女として任命される神聖な儀式だ。参列できるのは王族と、任命される聖女たち、そして引率の学園長のみ。儀式は厳粛かつ完全な非公開で進められる。ここで晴れて、王国の聖女として正式にその名を刻むのだ。
「色はどっちも白なんだね?」
エナは手渡された二枚のデザイン画を受け取り、二人の対面にある空いたソファへと腰を下ろした。白一色で描かれた美しいドレスのラインを指でなぞりながら、素朴な疑問を口にする。
「聖女の正装は、清廉を表す白と決まっているのよ」
セラフィナが教え子の面倒を見るような柔らかな手つきでデザイン画を整える。一方でリリアは、大きな溜息をついて再びソファに沈み込んだ。
「任命式はまだいいけど、その後の新年祝賀会の方が憂鬱だわぁ……」
「まあ……リリアは間違いなく、求婚者の群れに囲まれるでしょうね」
その日の夜、新しく任命された聖女たちは祝賀会の席で、貴族社会へと華々しくお披露目される。それは実質的な社交界デビューであり、多くの聖女がこの夜をきっかけに高位貴族への縁談を掴み取るのだという。
「セラフィナは婚約者がいるからいいなぁ。パパにガードしてもらうけど、もう既に縁談の手紙とか来てるって連絡きたのよ」
「縁談!? 十代なのにもう?」
「そうなの! 本当に勘弁してほしいわ。だからこそ、せめて一番似合うドレスを着て、気合を入れたいの。ねえ、エナ。客観的に見てどっちがあたしに似合う?」
リリアの切実な視線に、エナは二つの画を見比べた。
(うーん、どっちも捨てがたいけど……)
リリアは手足が長くて、まるでモデルみたいにスタイル抜群だ。右の王道なAラインも文句なしに可愛いけれど、せっかくの綺麗なプロポーションが隠れてしまうのはちょっともったいない気がする。
「右のドレスも素敵だけど……リリアはすらっとしてスタイルがいいから、左の体のラインが出る方が似合うと思うよ」
「本当? じゃあ、エナを信じてこっちにしようかな!」
ぱっと顔を輝かせたリリアに、セラフィナも満足そうに頷いた。
「確かに、こっちのドレスの方がリリアには似合うわ。ちょうどいいし、エナも一緒にドレス選びましょう?」
「え、私? 二人と違ってまだ一年生だけど」
「ドレスなんて、持ってて損はないわよ。この世界に来てから、一着も仕立てていないのでしょう?」
二人は、エナが別の世界から来たことを知っている。
「……うん。持ってない」
「だったら決まりね。ほら、こっち座って。デザインなら掃いて捨てるほどあるんだから!」
リリアに手を引かれ、エナは二人の間に挟まれるように座らされた。
机いっぱいに広げられたデザイン画を覗き込みながら、エナは目を輝かせる。
「わぁ……綺麗。セラフィナはドレス決めたの?」
「ええ。わたくしはこれにしたわ」
セラフィナが取り出したデザイン画は、ふわふわとしたレースが何層にも重なった、彼女の儚げな美しさを引き立てるドレスだった。
「可愛い! お姫様みたい〜!」
「一目見て気に入ったの」
そう言って上品に微笑むセラフィナの頬が、ほんのりと桜色に染まる。いつも冷静で大人びている彼女が、お気に入りの衣装を前に少女のように瞳を輝かせているのが、エナにはたまらなく愛らしく思えた。
「アクセサリーは規定ないから、なんでもいいのよ! 二人共、これ見て」
リリアはアクセサリーのカタログを鞄から取り出すと、机の上に勢いよく開いた。
ドン、と広げられた分厚いカタログには、ページをめくるたびに眩いばかりの宝石が並んでいる。
(見てるだけでテンション上がるなあ)
元の世界にいた頃、友達と新作のコスメやアクセサリーを見つけては「これ絶対可愛い!」と騒いでいた放課後を思い出す。こちらの世界に来てからというもの、ルシアンのことや環境の変化で頭がいっぱいだったけれど、こういう女の子特有のワクワク感は、やっぱり理屈抜きで胸が躍った。
「どれにする? エナは絶対、大粒ルビーが映えると思うの」
「ねえ、このネックレスなんてどう? 繊細なカットが素敵」
セラフィナの白い指先が、ページの上を優雅に滑る。
「セラフィナは、このペリドットの方が似合いそうよね」
「リリアなら、こっちのアクアマリンはどうかしら?」
「このドレス、エナに着せてみたいわ!」
「婚約者の瞳の色に合わせるのも、トレンドよね」
三人で肩を寄せ合い、色鮮やかなカタログを覗き込む。
宝石やそのカット、ドレスの生地、色んな種類のレース。ああでもない、こうでもないと、賑やかな声が弾む。
ルシアンとの出来事で凍りついていたエナの心が、暖かな談話室の空気と二人の楽しそうな声に、少しずつ溶かされていくのがわかった。
寮母のマダム・マリーナが「夕食が届きましたよ」と呼びに来るまで、女子の作戦会議はいつまでも続いていた。




