【47】すれ違った温度のゆくえ〈3〉
「ルシアン! お願い、待って!」
呼ぶのと同時に、エナはルシアンのローブの裾を強く引っ張った。
ルシアンはようやく立ち止まる。ゆっくりと振り返った彼の瞳は、ひどく冷たかった。
エナは思わず息を呑み、掴んでいた指先がびくりと震えた。射抜くようなその視線の鋭さに、蛇に睨まれた蛙のように体が強張ってしまう。
「手を、離してほしい」
拒絶の言葉が、追い打ちをかけるように降ってきた。
「……なんで、私のこと避けるの?」
潤む瞳で問いかけると、ルシアンがわずかに怯んだ気がした。
喉元がごくりと動き、何かを言い淀むように視線が彷徨う。けれど、ルシアンがエナの手にそっと触れたとき、その指先は驚くほど熱かった。
「……君とは少し、距離を置きたいと思っている」
ガツンと頭を殴られたような衝撃に立ち尽くす。
何、と問い返すより早く、ルシアンは裾を掴んでいたエナの手を毅然と引き離した。
「なんで……? 私、何かした? 嫌われるようなこと、言っちゃった?」
エナの必死な問いかけに、ルシアンは痛みに耐えるように顔を歪めた。何かを言おうとして唇を開き、けれど音にならずにまた閉ざす。
「ごめん。悪いところがあるなら直すから、許して」
縋る思いでわずかに一歩踏み出すと、ルシアンは警戒するように微かに後ずさる。自分が謝ったことで、なぜか逆に彼を追い詰めてしまったように見えて、エナは息を呑んだ。
悲しさと無力感で胸が締め付けられ、ぎゅっと唇を噛み締める。きっと、これ以上何を言っても、今のルシアンには届かないのだろう。
「……違う。これは、僕の問題だ」
ルシアンは眉根を寄せて、自分に言い聞かせるように呟いた。
声は冷たいのに、微かに震えている。伏せられた金色の睫毛が、ひどく不安定に揺れた。
(意味がわからない。ルシアンの問題で、なんで私と距離を置く必要があるの)
脳が理解を拒否し、思考が砂嵐のようにざらつく。
彼が苦しそうなのはわかる。けれど、その苦しみの原因におそらくエナが関わっていることに、視界がじわりと歪んだ。
「少しって、どれくらい? いつまで待てばいいの?」
問いかけると、ルシアンはばつの悪そうな顔をして、エナから視線を逸らした。
「すまない。これは僕の我が儘だ。君に非はない。……だから」
「だから?」
「──これ以上、僕に踏み込まないでくれ」
平坦な声が、鋭利な刃物となって、胸に刺さった。
痛い。痛い。どうして。
声をあげそうになって、唇を噛む。
好きな人に拒絶されることが、こんなにも辛いなんて、エナは知らなかった。
言葉の刃に切り裂かれたように、二人の間に重く冷たい沈黙が落ちる。
これ以上何を言えばいいのかわからない。胸の奥がつんと痛んだ。
「もういいだろうか。失礼する」
ルシアンが踵を返し、その背中が遠ざかろうとする。このまま終わらせてはいけないと、エナの直感が必死に警鐘を鳴らした。
「……じゃあ、せめて理由だけでも教えてよ」
縋るように伸ばした指が、ルシアンの手に触れかけた、その瞬間だった。
──パシッ。
「……っ」
ほとんど反射のように、ルシアンの手がエナの手を払っていた。
遅れて、じん、と熱が広がった。手の甲が、じわりと赤くなっていく。
(……いたい)
ルシアンの顔に、痛々しいほどの後悔が走る。自分の手を見て、それからエナの赤い手首を見て、彼は絶望したように顔を歪めた。
「すまない。君の側にいるのは、もう……限界なんだ」
(──ああ)
エナの胸に、冷たい納得が落ちる。いつの間に、こんなに嫌われてたんだろうか。
(私と一緒にいるの、ずっと嫌だったんだ。我慢して、耐えていて、もう我慢できなくなったのかもしれない)
だから、距離を置きたいと言って、エナから離れようとしているんだろう。
「手……すまない」
ルシアンは小さく呟くと、逃げるように背を向けた。
最後に垣間見えた彼の顔は、エナを激しく拒絶したはずなのに、誰よりも傷つき、泣き出しそうなほどの後悔と苦悩に満ちていた。
(……やだ。待って。それじゃあ、なんでそんな顔をするの?)
置いていかれる。その事実が、数秒遅れて足元から這い上がってきた。
自分を拒絶する彼が、なぜこれほどまでに傷ついた顔をしているのか。エナには理解できなかった。
(元々不器用な人だと知っていたけど、わけがわからない)
さっきからルシアンは、自分の意思を告げるばかりで、エナの感情には触れようともしない。その頑なな態度が胸の奥をじくじくと苛立たせた。
あまりにも勝手だ。自分を傷つけ、遠ざけておきながら、そんな顔をするなんて。
悲しみと、一方的な理不尽さへの怒りが入り混じった熱い塊が、喉の奥までせり上がってくる。
(自分だけ意思を通して、私の気持ちは無視なんて。いくら推しでも許せない)
「……勝手なことばっかり言わないでよ!」
エナは乱暴に目元を拭うと、足早に遠ざかっていくルシアンの背中を追って、弾かれたように駆け出した。
特別棟から外へ出ると、灰色の雲が空を覆い、雪がしんしんと降り積もっていた。吸い込むたび、冷たい空気が肺を鋭く突き刺す。
「ルシアン!」
細やかな雪の粒が頬を打ち、数歩先を行く彼のローブにも雪が薄く積もっていく。
彼はやはり、振り向かない。その頑なな拒絶が、エナの中で何かの糸をぷつりと切った。
ポケットから、一週間ずっと持ち歩いていたシルクのハンカチを取り出す。いつ返そうか、何を言って渡そうか。そんなことばかり考えていた、ルシアンから借りたハンカチ。
(……もう、知らない。悩むのも面倒くさい。こんなもの──)
「ば〜〜〜〜〜か!」
エナはハンカチを丸めると、渾身の力でルシアンの背中に投げつけた。
布の塊は、ルシアンの後頭部に頼りなく当たり、雪の上にぼとりと落ちた。
ルシアンの足が、止まる。
ルシアンが驚いて振り返ったときには、エナはもう雪の向こうへと駆け出していた。
(知らない! もう、何もかもどうでもいい)
視界が滲んで、熱い涙が横に流れる。けれど、頬を打つ冷たい風が、今はひどく心地よかった。
白一色の地面に、ポツンと残された銀色の刺繍入りのハンカチ。
エナの姿が完全に見えなくなったあと、ルシアンはその場に膝をついた。
震える指先が、雪に埋もれかけた布を拾い上げる。
掌に残るハンカチは、雪に濡れて冷たくなっているはずなのに、温もりが残っていた。
ルシアンはそれを強く握りしめ、誰にも聞こえない声で、ただ、彼女の名前を呼んだ。




