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【46】すれ違った温度のゆくえ〈2〉

「今日も、いない……か……」


 何度目かの絶望を飲み込んで、エナは小さく呟いた。


 カチャリ、と行く手を阻む手応え。そこから逃れるように手を離すと、腕は重力に逆らえずぶらんと力なく垂れ下がった。




 次の日も、そのまた次の日も。

 淡い期待を抱いては、冷たく閉ざされた扉と対面する。そんな出口のない繰り返しが、いつの間にか一週間を数えていた。


 ふと顔を上げると、廊下の窓の外では雪が降ったり止んだりを繰り返している。雪の強い照り返しを受けて、窓ガラスに映る自分の顔が白く、幽霊のように透けて見えた。


(あーやだ……ひどい顔)


 そこに映っていたのは、一週間前までの高揚感をどこかに落としてきたような、生気のない姿だった。


 エナは冷たい石床に力なく腰を下ろし、ぎゅっと膝を抱えた。

 最初は、風邪でも引いたのかな、なんて呑気に考えていた。けれど、あの気遣いに長けたルシアンなら、エナに心配かけないよう書き置きのひとつくらい残すはずだ。それなのに、目の前の扉はただ頑なに鍵がかけられている。


 放課を告げる鐘の音と同時に教室を飛び出し、扉の前で夕食の時間になるまでルシアンを待つ。そんな日々が重なるにつれ、エナの心は波にさらわれる砂の城のように、少しずつ、けれど確実に削り取られていった。


「うー……」


 膝に顔を埋め、こらえきれない呻きが漏れる。

 彼のクラスまで押しかければ、あるいは捕まえられるかもしれない。けれど、そんな勇気は今のエナのどこを探しても見当たらなかった。もしそこで、他人のような冷たい目で見られたら──そう思うだけで、足がすくんで動けなくなる。


 ──なんでずっと、会えないんだろう。

 

 そんな疑問を無邪気に口に出せるほど、エナは子供でも、鈍感でもなかった。


 一週間もこの状態が続けば、嫌でも予想はついてしまう。望まない答えが嫌でも喉元までせり上がってくる。

 エナは重い瞼を閉じ、額を扉の冷たい木肌にそっと押し当てた。


「……そっか。やっぱり、そうなんだよね」


 認めたくない事実を無理やり飲み込み、エナは肺の奥にある空気をすべて吐き出すように、長く、重い溜息をついた。


(私は、避けられている。……ルシアンの意思で)


 ストン、と腑に落ちたというよりは、足元の床が急に消えて、底なしの深い穴に突き落とされたような感覚だった。


 窓の外を見れば、燃え尽きるような夕陽が、真っ白な雪原をどろりとした橙色に染め上げていた。刻一刻と、校舎の影が青く長く伸びていく。


 悶々と扉の前で答えの出ない問いを繰り返しているうちに、すっかり日が暮れようとしていた。


(……そろそろ帰らなきゃ)


 もはや体温の感じられない自分の指先を見つめ、エナはようやく、重い腰を上げた。


 喧騒が遠くから聞こえ始める中、廊下を行く足取りはどこか現実味がなくて、地面を踏みしめている感覚すらおぼつかない。まるで綿の上を歩いているような、頼りない浮遊感に眩暈がした。


(……きっついなぁ、これ)


 ショックのあまり、どうやって息を吸えばいいのかさえわからなくなってしまいそうになる。胸の奥が、ぎゅっと握りつぶされたように痛い。


 ふと窓の空を見上げれば、あの日からずっと、雪が降り続いていた。




 ◾︎◾︎◾︎




(今日も、駄目かぁ……)


 とぼとぼと薄暗い廊下を歩きながら、エナは再び重い溜息をこぼした。

 指先に残るドアノブの感触が、いつまでも消えない。扉の奥は人の気配がなく、居留守を使われていないことが唯一の慰めだった。


 今日は会えるかもしれない。そう思って、ルシアンに見せたくて毎日少しずつ変えていたメイクも、きっと今のひどい顔では台無しだろう。


 重い足を引きずるようにして階段を下りていると、ふいに踊り場の角で、見慣れた淡い金色の髪が揺れた。


(え……)


 ドクン、と心臓が大きく跳ね上がる。血の気が引き、同時にカッと熱くなるような奇妙な感覚がエナを襲った。



 視線がぶつかる。


 そこには、今まさにエナの頭を占める男──ルシアン・ベルクレアが立っていた。



 紫水晶の瞳が大きく揺れ、次の瞬間、吸い込まれるように斜め下へ逸らされた。


(あ……)


 一週間ぶりに見る彼は、少し痩せたように見えた。目の下にはうっすらと疲労の影が落ちていて、どこか触れがたい、張り詰めた空気を纏っている。あんなに優しかったはずの彼が、今はひどく遠い、知らない人のように思えた。


 それに、変に距離がある。明らかに、あの夜までの親しい友人の距離ではない。

 エナの足は、その重苦しい雰囲気に完全にすくんでしまった。

 それでも、これ以上気まずくなりたくなくて、震える唇を無理やり引き上げ、ひきつった笑顔で口を開く。


「──ひ、久しぶり! 体調悪かったの……?」


 自分の声が、嫌になるほど上ずって壁に跳ね返る。

 勇気を出して声をかけても、ルシアンは頑なに目を合わせてくれなかった。まるでエナの存在そのものを視界に入れないようにしているかのようだ。


「最近会わないから、心配してたんだよ」


 一段、また一段と、ルシアンとの距離を詰めるように恐る恐る階段を下りる。


「ルシアン……?」


 エナが名前を呼んだ瞬間、ルシアンはびくりと肩を震わせ、ぴくりと眉を跳ねさせた。そして、一切の感情を切り捨てるように、エナから背を向けて無言で歩き出した。


「ルシアン!」


(待って、どうして)


「……ねえ、無視しないでよ」


 縋るように呼びかけても、ルシアンは歩みを止めない。それどころか、まるで追いつかれないように、足音すら立てず歩調を早めていく。


(なんで……? 私、何かした?)


 避けられている。それどころか、あからさまに逃げられている。明確な拒絶を、その遠ざかる背中から叩きつけられた気がした。


 胸の奥が急速に冷えていくのを感じながら、エナは怖気付く気持ちを無理やり抑え込み、階段を駆け下りた。


 このまま行かせてしまったら、もう二度と彼と話せないような気がした。

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