【45】すれ違った温度のゆくえ〈1〉
「おおー、積もってる!」
顔を洗い、着替えを済ませたエナがカーテンを開けると、そこには真っ白な世界が広がっていた。
タオルで顔の水分を丁寧に拭き取りながら、窓の外を見遣る。
遠くに見える薄青い尖塔にはふんわりと雪が積もっており、まるで粉砂糖をたっぷりと振りかけたパンドーロのようだ。
(甘いものの口になってきた)
空腹と食欲をあやすように、棚の奥から小さな瓶を取り出す。以前、リリアたちと気まぐれに買ってみたものの、なんとなく使う機会を逃していた香水だ。
シュッと空中に一吹きして、その霧の下をくぐり抜ける。ジャスミンの柔らかく、けれど凛とした甘い香りが、まだ眠気の残る身体を優しく包み込んだ。
(それにしても、再試受かってよかったあ)
もしあんなに練習に付き合ってもらって落ちていたら、ルシアンに顔向けできないところだった。ふわりと漂う香りに包まれながら、ようやく込み上げてきた合格の実感に胸を撫で下ろす。
(ルシアンにお礼を言わなきゃ。それに、そろそろ借りっぱなしのハンカチも返したいし)
視線を向けると、棚の片隅には綺麗に洗濯してアイロンをかけたハンカチが、ちょこんと置かれている。持ち主に似て上質で真っ白なその布地を眺めているだけで、ルシアンと過ごした時間が蘇ってきて、自然と口元が緩んでしまう。
再試のあとは、リリアとセラフィナが主催してくれた合格記念のパジャマパーティーで大はしゃぎした。そこから土日を挟み、今日、ようやくルシアンに会えるのだ。
ふと鏡を見ると、そこに映った自分はだらしない笑みを浮かべていた。
いけないいけないと慌てて両手で頬を叩き、シャキンと澄ました顔を作って再び覗き込む。最近は肌の調子もいいし、なんだか少しだけ可愛くなった気がする。早起きもできたことだし、今日のメイクはいつもより念入りにしよう。
「よしっ」
小さく声に出して、自分に気合を入れる。
普段はチークやリップをさっと引く程度だが、今日は特別だ。リリアの実家の商会で一番人気のファンデーションを、丁寧に肌にのせていく。光を反射して肌がワントーン明るくなると、なんだか心まで浮き立ってくるから不思議だ。
正直に言えば、元の世界にあったアイシャドウの多彩なパレットや、色とりどりのリップのほうが、種類も豊富で華やかだった。けれど、この世界の限られた道具であっても、こうして工夫して自分を飾る時間はやっぱり楽しい。
最後に一番の難関である髪の毛にとりかかる。
ふわふわと波打つ癖毛は、いつもなら時間がなくて櫛で梳いたあとはそのままにしているけれど。エナは引き出しの奥から、ルシアンにもらった大切な髪紐をそっと取り出した。
(今日は、髪を結ぼうかな)
こんなに冷え込む日に首筋を出すのは少し勇気がいるけれど、彼に見せたい気持ちの方が勝ってしまう。まだまだ慣れない手つきで格闘すること数分。鏡の中でようやくポニーテールが完成した頃には、いつもの朝食の時間になっていた。
「エナー、朝食届いたわよ!」
扉越しにセラフィナの弾んだ声が届く。
「今日はパウンドケーキよ。二人とも早く早くー」
階下からはリリアの賑やかな催促が追いかけてきた。
「やった」
(パウンドケーキ、甘いもの!)
ぴょんと椅子から立ち上がったエナは、ポニーテールにした髪を軽やかに揺らしながら、足元に置いていたローブをひっ掴んだ。
「今行く!」
◾︎◾︎◾︎
(どんな顔するかな)
放課を知らせる鐘の音を背に、エナの足取りは羽が生えたように軽かった。向かう先は、いつもの研究室だ。
腕の中の大切な箱を揺らさないよう気遣いながら、今にもスキップしそうな勢いで廊下を進む。ふと窓の外を見遣れば、朝から降り続く雪が、校舎や演習場を白く深く覆っていた。
世界が寒々しい景色に変わっていくのと対照的に、エナの胸の内は期待でぽかぽかと温かい。
(なんだって、マダム・マリーナ特製のチョコタルト持ってきてるもんね)
抱えた箱からは、甘く香ばしいチョコタルトの匂いがふわりと漂っている。寮母のマダムが腕によりをかけて作ったお菓子は、いつもどれも絶品なのだ。
(ルシアンも絶対喜ぶに決まってる)
いつも涼しい顔をしているあのルシアンだが、本人は無自覚なだけで、実は結構な甘党なのだ。
階段を一段飛ばしで駆け上がりながら、ルシアンがタルトを頬張る姿を想像して、ついにやにやと頬が緩んでしまう。抑えきれない高揚感のまま、研究室の扉に手をかけた。
「ルーシアン! お土産、持ってき──」
勢いよく告げようとした言葉は、けれど、最後まで形になることはなかった。
ドアノブを回そうとした手に、嫌な抵抗感が伝わる。もう一度捻って押してみても、重々しい扉はぴくりとも動かない。
(閉まってる……)
「あれ、いないのかな」
扉のすりガラスに顔を寄せ、中を覗き込む。けれど、そこにあるはずの鮮やかな金髪は見えず、部屋の中からは人の気配が一切感じられなかった。
(……鍵がかかってるなんて、珍しい)
エナがここへ通うようになってからというもの、ルシアンは離席中であっても、彼女のためにいつも鍵を開けておいてくれたのに。
すぐ戻ってくるだろう。そう思って、エナは廊下の壁に寄りかかり、彼を待つことにした。
しかし──。
三十分が過ぎ、一時間が経っても、ルシアンが姿を見せることはなかった。
次第に窓の外は茜色から群青へと沈み、日の落ちた廊下には底冷えする空気が忍び寄ってくる。すっかり冷え切った足先を擦り合わせながら、エナはようやく重い腰をゆるゆると上げた。
「来ないんかーい」
力なく呟きながら俯くと、ポニーテールに結い上げた髪が、重力に従ってしなだれるように頬に触れる。朝、あんなに一生懸命ルシアンを想って結んだ髪が、今はただ、ひどく重く感じられた。
(ここ最近で、一番可愛い私を見せたかったんだけどな……)
「うん。帰ってみんなで食べよ」
腕の中の箱を見つめ、エナは小さく、自分に言い聞かせるように呟いた。
夕食の喧騒が遠くから聞こえ始める中、エナは一人、凍えた廊下をとぼとぼと歩き出した。




