【44】認めてしまえば、最後〈3〉
(くそっ!)
感情の乱れるままに手当たり次第に物に当たったせいで、足元には紙や本が無残に散らばっている。
ルシアンはソファーに深く腰を下ろし、両手で顔を覆った。
考えるのをやめたいのに、やめられない。時刻は既に、午前三時を回っていた。
胸の奥がひどく重い。苦しいわけでも、悲しいわけでもない。ただ、自分自身にひどく失望していた。
どれだけ時間が経とうと、どれだけ離れようと、自分の気持ちは決して変わらないと、ずっと信じていたのだ。だからこそ耐えられたし、諦めずにいられた。それなのに、たった一人の少女によって、これまでの誓いがこんなにも簡単に揺らいでしまった。
ルシアンは息を詰め、指先が頭皮に食い込むほど、強く、強く髪を掻き乱す。
何度考えても、結局は同じ思考に辿り着いた。
──やはり、離れるべきだろう。
淡く光を纏い、月光の下で軽やかに回る彼女。追い払おうとしても、エナの残像が思考の奥から次々と浮かび上がってくる。
屈託のない笑顔、夜風に踊った銀髪の揺れ、鼓膜にこびりついて離れない歓喜の残響。そのすべてが、たった今そこで起きたことのように鮮明すぎて、ルシアンは自己嫌悪で吐き気すら覚えた。
彼女と、なんと言って別れたか覚えていない。ただ、去り際の自分の顔がどれほど無様に火照っていたかだけは、耳朶を打つ熱い拍動が教えてくれた。
(……どうして)
胸の奥で、言葉にならない問いが軋む。
エナに惹かれる自分は、クローディアへの純愛を裏切る不誠実な男だ。
ルシアンは顔を覆った指の隙間から、部屋の隅に落ちる月光を凝視する。
そこに、ありもしない銀色の髪が揺れる幻を見た。そのたびに、胸の奥が鋭いナイフで抉られるような痛みに軋む。
「……っ」
痛いほどわかっているのに。それでもルシアンは、エナを思うことをやめられなかった。
いっそ過去のことと切り捨てて、感情のままに身を任せたいという欲求がルシアンを容赦なく苦しめる。
これまでルシアンにとって、クローディアを想い続けることは、自分の存在理由そのものと言ってよかった。あの時の自分が、彼女の存在にどれほど救われたか。
(最低だ……)
エナは何も悪くないし、責める理由など一つもない。悪いのはすべて自分だ。
勝手に想い続けると決めて、勝手に誓いを立てて、そして今、勝手に破りかけている。誰かに強制されたわけでも、誰かに責められているわけでもないのに。自分だけが、こんな裏切り者の自分をどうしても許せなかった。
ルシアンはさらに深く顔を伏せた。
(離れないと……)
罪悪感と自己嫌悪が混ざり合い、ルシアンの呼吸が激しく乱れる。いくら浅い呼吸を繰り返しても、肺の奥までエナの甘い香りに染め上げられているような気がして、絶望的な心地になる。
(今、彼女から離れられれば……きっと、大丈夫だろう)
要は、この疼きをこれ以上育てなければいいのだ。
視線を逸らし、耳を塞ぎ、彼女が嬉しそうに自分を見上げるたびに湧き上がるこの感情に、名前など付けなければいい。
そうすれば、また前の自分に戻れる。誰もが望み、自分自身も信じていた、完璧な“ルシアン・ベルクレア”に。
──本当は、ずっと前から気づいていたのだ。
エナが視界の端に入るだけで、無意識にはやる心臓に。熱を持つ顔に。心に浮かぶ本心に。
ルシアンは髪を乱暴にかき乱し、膝を抱えて項垂れた。
会えば会うほど想いが深くなる。話せばもっと好きになる。笑いかけられれば、つい期待してしまう。エナが隣にいることが、いつの間にか当たり前になっていく。
それが恐ろしかった。
この感情をこれ以上育ててしまえば、本当に戻れなくなる。クローディアへの昔の想いにも、今まで築き上げてきた自分自身にも。だから、今ならまだ間に合うはずだ。今ならまだ、ただの友情だと言い張れる。今ならまだ、引き返せる。
(だから今は、気持ちを整理する時間が欲しい)
体の内を駆け巡る激情を堪えようと必死だった。
静まり返った暗い寝室に、情けないほどに乱れた呼吸音だけが響き続けた。




