【43】認めてしまえば、最後〈2〉
(……なんだか、変な感じだ)
今日のエナには、なんとも言えない存在感がある。
月光を浴びて舞う彼女の姿は、これ以上ないほど美しかった。
「ねえ、私のステップどうかな? 合ってるよね?」
ふと、エナが少し不安そうにルシアンの顔を覗き込んできた。
そんな風に真っ直ぐに見つめられたら、ステップの成否どころではない。必死に動揺を押し殺しながら、ルシアンは声を絞り出した。
「ああ、上出来だ」
「……よかったあ」
エナはほっとしたように、柔らかく微笑んだ。
ステップを踏むたびに彼女の放つ熱が、甘い香りが、ルシアンの理性をじりじりと焼き切っていく。どうしても意識が彼女の指先や、触れ合う肩に引っ張られてしまい、ルシアンのリードがわずかにぎこちなくなる。それをエナが見逃すはずもなかった。
「ルシアン、ちょっといつもよりかたいんじゃない?」
にんまりと悪戯っ子のような笑みを浮かべて、エナが顔を覗き込んでくる。
「……ちょっと冷えただけだ」
もちろん、それが嘘であることは自分でも自覚があった。本当は冷えるどころか、彼女の熱が伝わって、全身がどうにかなりそうなほど熱いのだ。ルシアンは誤魔化すようにふいと視線を逸らした。
「あははっ、可愛い」
「はあ?」
からかうような言葉に、ルシアンは思わずムッとして眉を寄せたが、熱くなった耳元までは隠せなかった。
「ふふっ、なーんでもない。寮に戻ったらすぐに暖炉で温まらなきゃね」
エナは楽しそうに笑いながら、くるりと鮮やかにターンを決める。満面の笑みを浮かべる彼女に釣られるように、ルシアンの唇も自然とほころんでいった。
やがて、旋律が静かに終わりを告げた。音が止む。
その瞬間、エナのほうからダンスの締めくくりであるディップのポーズを仕掛けてきた。
(なっ──!?)
不意を突かれたルシアンの脳裏に、衝撃が走る。
滑らかに倒れ込む彼女の背を支えるため、ルシアンは咄嗟にその身体をぐっと自分の方へと引き寄せた。必然的に、二人の距離は限界まで縮まる。
ルシアンの腕の中で、エナの身体しなやかに弧を描く。そして、近すぎる距離にルシアンが息を詰めた瞬間、エナの白い吐息が、甘い熱を帯びて頬を掠めていった。
「できた。私、ばっちりできた!」
やりきった達成感に溢れた声が耳朶を打つ。
ルシアンが呆気にとられながらも、慌ててエナの身体をゆっくりと元の姿勢に戻してやると、腰から手が離れた途端、彼女は解放されたようにその場でぴょんぴょんと跳ね喜びを露わにした。
そうして無邪気にはしゃいでいたエナは、弾みをつけるように、そのままルシアンの胸へと飛び込んできた。
「ルシアン……ほんとに、ほんっとに、ありがとう! これなら絶対合格できる!!」
不意の衝撃に、ルシアンは反射的に彼女の華奢な身体を抱きしめた。シャンプーの甘い香りが、ふわりと鼻をくすぐる。
「あっ、ごめん!」
我に返ったエナがぱっと身を離し、恥ずかしそうに髪を耳にかけて、へらりと笑った。
「ほんとに嬉しくってつい。ありがとうね」
月明かりの下、エナが会心の笑みを浮かべる。
それは、闇の中に一夜だけ咲き誇る月下美人のような、あるいは雪解けを待たずに可憐に揺れる鈴蘭のようでもあった。美しくもあどけない、あまりに鮮やかな、猛毒のような笑み。
ルシアンの心臓が、ドクンと暴力的な高鳴りを上げた。
(──ああ)
だめだ。
「……そうか。それは何よりだ」
目を伏せ、ぎこちなく笑い返す。
これは、だめな感情だ。
知らない。知りたくない。
先ほどまで密着していた部分から伝わった彼女の鼓動が、ひどく心地よかった。ずっとこのまま彼女を抱きしめていたいという、どろりとした衝動がこみ上げ、ルシアンはそんな自分に血の気が引いた。
違う。
違うだろう。
それだけは、絶対にありえない。
「あっ……」
エナの微かな声に反応して視線を向けると、ふと、視界の端に小さな白い粒が紛れ込んだ。
「雪だ」
エナは顔を上げて、両の手のひらを空に広げた。月光を浴びながら、落ちてくる白いかけらを愛おしそうに見つめる彼女の姿が、あまりにも楽しそうで、ひどいほどに綺麗で。
──ルシアンの心臓は、もう制御が効かないほど激しく打ち鳴らされていた。
「ルシアン、見て見て。雪!」
自分には、誰よりも大切で、誰にも代えられない大事な人がいるはずだ。だからこそ今まで、彼女を失った世界が辛くて、心にぽっかりと穴が空いたようだったのに。
(ああ、くそ。……気づきたくなかった)
──認めてしまえば、最後だ。
「もしかして初雪じゃない!?」
はしゃぐ彼女から逃れるように、ルシアンは目を伏せ、視線を逸らした。冷たい夜風に晒されているはずなのに、耳まで真っ赤に染まっているのが自分でもはっきりとわかった。
違う。違うはずだ。
そんなものではない。
ただ、少し親しいだけだ。気が合うだけだ。放っておけないだけだ。本当に、それだけなんだ──。
必死にそう言い聞かせるものの、胸の内で紡ぐ言葉は驚くほど空虚だった。すぐさま、脳裏には頑固な反論ばかりが湧き上がる。
彼女が笑えば心の底から嬉しかった。姿が見えない日はどうしようもなく落ち着かなかった。何かあれば、誰よりも先に彼女の無事を確認したかった。気づけばいつも、その姿を視線で追っていた。声を聞くだけで、張り詰めていた心が安堵に満たされていた。
──それを、ただの友情だと?
そんなはずがないと、自分が一番よくわかっていた。
(くそ……)
自分の不甲斐なさと、制御の利かない高揚感が混ざり合い、全身が痺れるように熱い。
ルシアンはこの感情に覚えがあった。過去、たった一度だけ──あの胸の内側で制御の利かない熱と、まったく同じ感情だ。
(このままじゃだめだ)
ルシアンの呼吸が激しく乱れる。
エナへのたまらない愛おしさと、自分への激しい嫌悪で胸が押しつぶされそうになる。
クローディアの聖域であったはずの心の中に、エナという名の光が強引に、土足で踏み込んでくる。
(クローディア……!)
唇を震わせ、かつての女神の名を心の中で唱える。けれど、その影を塗りつぶすように、目の前で笑う少女の鮮烈な残像が脳裏に焼き付いて離れない。
(だめだ、彼女に惹かれてはいけない……)
一途さだけを唯一の誇りとしてきた自分にとって、この心変わりは、過去の自分を足蹴にするも等しい行為だった。
(くそっ)
ぎゅっと拳を握りしめ、ルシアンは襲いかかる自己嫌悪の嵐をねじ伏せるように奥歯を噛み締めた。かつて自分に立てた誓いを破り、別の少女に心を奪われかけている──その現実が、ルシアンの理性を容赦なく咎め立てていた。
(離れないと──)
だが、彼女を愛おしいと思ってしまうこの心を、どうしても止めることができない。
(このままじゃ僕は、不誠実な裏切り者だ)
クローディアへの誓いも、積み上げてきた一途な過去も。
すべてを投げ出してしまいそうなほどの熱が、胸の奥で爆発しそうだった。




