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【42】認めてしまえば、最後〈1〉

「わあ……すごい! こんな場所があったんだ」


 視界いっぱいに広がる夜景に、エナが感嘆の声を漏らす。

 ルシアンが案内したのは、特別棟の屋上だった。


 長年風雨に晒されてきた灰色の石畳が広がっており、中央には円形の観測台が設けられている。そのため屋上は開放感があり広々としていた。


 部屋の隅に置かれた、防水魔法のかけられた幕。エナはそれをひょいと捲り上げると、目を輝かせた。


「おっ、望遠鏡もある!」


「ああ──この屋上は天文台も兼ねられているからな」


 ルシアンがそう答えると、エナはたったっと軽い足取りで、屋上を囲む胸元ほどの高さの石壁へと駆けていった。身を乗り出せば、その向こうには学園の尖塔や、点々と灯る寮の明かり、遠くにうっすらと広がる冬の海が見渡せる。


 ルシアンもエナの隣に並んで、彼女の視線の先にある夜空を一緒に見上げた。


 見上げる夜空は深い藍色に沈み、そこを這うような灰白色の雲が、ゆっくりと月を覆い隠していく。月光が遮られたことで、重厚にそびえ立つ時計塔のシルエットが、夜の底へぼんやりと、けれど圧倒的な存在感で浮かび上がった。


 手元を照らすために持ってきた魔法灯(ランタン)は、夜空に浮かぶ満月の煌々とした光の前では、どうやら必要なかったらしい。


 エナは石壁から身を乗り出し、眼下を見下ろした。


「結構高いね。人があんなに小さく見える」

「──そうだな」


 ルシアンは抑揚のない声で短く応じた。ふと、以前ここから飛び降りようとした時の冷たい記憶が脳裏を掠めたが、すぐに頭を振って振り払う。


 ルシアンは懐から懐中時計を取り出し、カチャリと蓋を開けて時間を確かめた。


(門限まであと三十分か……)


 あまり長居をして、彼女を巻き添えに咎められるわけにはいかない。


(それに、雪でも降りそうな天気だ)


 厚手のローブに縫い付けられた温度調節の魔法陣があれば、短い練習時間なら耐えられるだろう。そう思って彼女を連れてきた。おかげで体は寒さを感じないが、吹き付ける夜風に顔の表面がひやりと冷やされる。何より、女子の制服は足が出ていることを失念していた。エナにはこの寒さは厳しすぎるかもしれない。


 早くも彼女を連れ出したことを、ルシアンは少し後悔し始めていた。こんな冷え込みの中、わざわざ外に出る必要はなかったのだ。彼女のステップはもう完璧で、明日の再試験も楽にパスできるだろう。


「……エナ、やっぱり戻──」


 そう声をかけようとして振り向いたルシアンは、息を呑んだ。

 雲の切れ間から青白い月明かりがこぼれ落ち、エナの横顔や銀髪を鮮烈に照らし出していた。


(本当にエナなのか……? まるで)


 ──この世のものでないみたいだ。


 夜の闇の中で、彼女一人だけが発光しているかのような錯覚を覚える。そのあまりにも美しい光景に、ルシアンはかけようと思っていた言葉を失い、ただ立ち尽くした。


「ん? どうかした?」


 見つめる視線に気づいたエナが、不思議そうに小首を傾げる。


「……いや、なんでもない」


 ルシアンは慌てて目を逸らし、唇を引き結んだ。

「戻ろう」──そう言おうと思ったはずなのに、ルシアンの心はまだ帰りたくないと、ひどく我が儘な声を上げていた。


 エナは「そう?」と気特に気にした様子もなく、再び夜空を見上げた。


「自然のソワレって感じで、絵になる場所だね」


 にこにこと微笑みながら、エナが言う。


「……お気に入りの場所なんだ。気分転換によく来る」


「わかる……。広くて誰もいないし、私も好きになっちゃった」


 エナはそう呟くと、空を仰ぎ、月光を全身に浴びるようにそっと目を閉じた。


 静かに佇む彼女から目が離せない。正体のわからない感情が、胸の奥でぐちゃぐちゃと乱れるのをルシアンは感じていた。


「ここって、出入りできるのは天文学の人と研究生だけなの?」

「ああ。基本的には」

「……そうなんだ」


 エナは得心したように目を細め、小さく頷いた。そして、にこりと花が咲いたような微笑みを浮かべる。


「連れてきてくれてありがとう。私もここが気に入った!」


 その無邪気な笑顔に、ルシアンの胸にじんわりと安堵が広がった。


(連れてきてよかった)


 自分の大切な秘密の場所を、彼女が同じように好きになってくれたことが嬉しかった。


 高鳴る鼓動を隠すように、ルシアンは短く吐息をこぼすと、指先を小さく鳴らした。

 空間に魔法が浸透し、どこからともなく水晶の粒を転がしたような、清澄な三拍子の旋律が流れ始める。


(これで、最後だ)


 改めてエナに向き直り、ローブの裾を払うようにして、優雅に一礼した。


「踊っていただけますか。──レディ?」


 顔を上げたエナの瞳が歓喜で潤み、きらきらと輝く。

 返事より先に、彼女の小さな手がまっすぐに伸びた。その顔には、隠しきれない期待と高揚が滲んでいる。差し出されたその手を、ルシアンは壊れ物を扱うようにそっと包み込んだ。


 自分の指よりも一回り小さく、冬の空気に少し冷えた彼女の手。


(こんなにも、細くて柔らかい……)


 触れた瞬間、指先から伝わってくる彼女の確かな存在感に、ルシアンの心臓がトクンと不規則な音を立てた。


 ふわりと、二人のローブが風を含んで円を描く。

 エナの制服の裾が夜風に靡き、ルシアンの肩に置かれた手にきゅっと力がこもった。

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