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【41】僕のところまで〈2〉

「わわっ!」


 突然の浮遊感にエナが小さく声を上げる。そのまま滑らかに身体を倒され、エナの背が美しい弧を描いた。


 視界が大きく揺れ、気づけば目の前には息を呑むほど端正な顔立ちがあった。長い睫毛の奥、紫水晶の瞳には、驚きに目を見開くエナの姿が鮮明に映っている。


「……なら、早く僕のところまで追いついておいで」


 ルシアンは耳元で囁くと、ゆっくりとエナを元の姿勢に戻してくれた。心臓を直接揺らすような、ひどく甘くて優しい声だった。


「──っ」


 囁かれた耳元を思わず手で押さえ、無意識にぽうっと彼を見つめる。ルシアンはそんなエナの視線に気づくと、小さく咳払いをして不自然に視線を逸らした。


「……これが、ダンスの最後に行うディップのポーズだ。君が綺麗に見えるように、最後はこのまま静止するといい」


 腰から手が離れるのをどこか名残惜しく思いつつも、エナはずるずるとその場にしゃがみ込んで、顔を両手で覆った。


「ん゛っん゛んん〜! やばい、無理。かっこよすぎて無理ぃ!」


 思わず漏れた心の叫びに、ルシアンは顔を真っ赤にして眉根を寄せる。


「うるさいぞ。静かにしてくれ」


「え〜、隣誰もいないじゃん」

「僕が隣にいる」


(えっ)


 声が近いと思って顔を上げると、いつの間にかルシアンもエナのそばにしゃがみ込んでいた。驚いて、しゃがんだまま器用にぴょんと跳ねる。しかしそれが仇となり、大きくバランスを崩してしまった。


「あっ──!」


 倒れそうになった背後には、棚の角が迫っていた。咄嗟に頭を守ろうと身を竦めた瞬間、ルシアンが慌ててエナの腕を掴み、自分の胸へと頭を引き寄せた。二人はそのまま重力に従って、床へと倒れ込む。


 完全にルシアンに抱きしめられるような体勢になり、エナは自分の顔へ一気に血が集まっていくのを感じた。この前と違うのは、押し倒しているのがエナではなくルシアンだということだ。制服越しに伝わる彼の確かな体温に、頭がどうにかなりそうだった。


「ごめっ」


「……いや」


 慌てて立ち上がろうと身じろぎした瞬間、


「いたっ」


 頭皮を引っ張られるような痛みが走った。


「どうした?」

「……いたたた!」


 ルシアンが声に反応して咄嗟に腕を動かすと、さらに連動して痛みが強くなる。


「すまないっ!」


 ルシアンが慌てて動きを止める。どうやら、彼の袖口にあるカフスボタンにエナの髪ががっちりと絡まってしまったらしい。

 押し倒されたような体勢のまま密着している気まずさに耐えかねて、エナは痛みを誤魔化すように思わず声を上げた。


「切っちゃっていいから! ハサミどこだっけ」


 エナが顔を上げてきょろきょろと周囲を見回すたび、カフスボタンに引っ張られた頭皮にちくちくと圧力がかかる。


「エナ」


 見かねたルシアンが、少し声音を低くしてエナの視線を遮るように名前を呼んだ。


「解くから動くな」


 ルシアンの厳命に、エナはピタッと動きを止める。ルシアンはエナの頭にそっと手を添えると、絡まった髪を解こうと至近距離で慎重に指先を動かし始めた。エナは固唾を飲んでその様子を見守る。


(なんかこれ、さっきより何倍も恥ずかしい……!)


 ダンスの時の方が密着していたはずなのに。お互い少し上体を起こし、彼の腕の中にすっぽりと収まるようなこの不適切な距離感は、あまりにも刺激が強すぎた。


 ルシアンの穏やかな呼吸、衣服から漂うホワイトムスクの香りが直に脳を揺らす。指先に連動して動くしなやかな腕の筋肉や、すぐそばにある彼の足の存在が嫌に現実的で、エナの心臓は彼に心音が聞こえてしまうのではないかと思うほど激しく打ち鳴った。


 耐えきれずに、エナは両手で再び深く顔を覆い隠す。

 その時、指の隙間から何かが光を反射したのが見えた。視線を向けると、すぐ近くの棚の中にちょうどハサミが置かれている。


(これで切れる……!)


 エナは素早く手を伸ばしてハサミを手に取ると、躊躇なく絡まった自分の髪をジョッキンと切り落とした。ふっと頭皮の圧力が軽くなり、無事にカフスボタンから解放される。


「あ……」


 本当に髪を切らせてしまったことに、ルシアンはひどくばつが悪そうな、申し訳なさそうな顔をして眉を下げた。


「あはは、すぐ伸びるから大丈夫! それに、ちょこっとしか切ってないし……」


 エナが明るく笑い飛ばしながら、手の中に残った短い毛束を何気なく見つめた──その瞬間、一瞬で血の気が引いた。

 手のひらの上にあるのは銀髪ではなく、見覚えのある元の自分の黒髪だったのだ。


(え、なんで。どういうこと……?)


 日常生活で自然に髪が抜けることはあった。でも、その時は確かに銀髪のままだったはずだ。違いがあるとすれば──刃物で無理やり切り落としたからだろうか。

 ドクンと心臓が跳ね、頭の中が一気にパニックで満たされていく。だが、とにかくルシアンに見られるわけにはいかない。エナは小さく息を呑むと、手の中の黒髪をすぐに握り込み、気付かれないよう素早くポケットの奥へと押し込んだ。


 そんなエナの内心の動揺など露知らず、ルシアンはまだ少しきまずそうな表情を残しながらも、床に座り込んだままのエナに向かって、すっと大きな手を差し伸べてくれた。


「ステップはもう完璧だ。だから……最後は、もう少し広い場所で仕上げないか?」


 エナを気遣うような優しい紫水晶の瞳を見つめていると、凍りついていた指先にじんわりと熱が戻り、暴れていた心音も不思議なほど静まっていくのを感じた。


「……うん」


 エナは小さく頷くと、差し出されたその手をしっかりと握り返し、ゆっくりと立ち上がった。


 今は何も考えまい。この瞬間はただ、ルシアンと過ごすこの貴重な時間だけを、この手の温もりだけを、胸に刻み込んでいたかった。

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